第五十四話 紅茶には、たっぷりの砂糖と涙を一滴
「せ、説得……わたくしが、ですの?」
「はい……」
まっすぐにミーアを見つめてくるルードヴィッヒ。
冗談を言っている様子は……、ない。
――というか、ルードヴィッヒが冗談を言うのはあんまり見たことがありませんし、え? では、本気なんですの?
突然の展開についていけないミーアであったが、
「え、えーっと、ルードヴィッヒ、できればあなたの師匠のことを詳しく聞きたいのですけど」
とりあえず態勢を立て直すべく言った。
「そうですね……」
ミーアのお願いに、「もっともだ」とばかりに頷いて、ルードヴィッヒは腕組みした。
「そうですね、師匠は……厳しい人です。弟子になりたいとやってきて、初日に心を折られて故郷に帰った者もいます。私なども叱責されて、三日三晩食事が喉を通らなかったこともありました」
――ええ……。
最初の一言で、ミーアのやる気が八割減退した。
「この世の理を解き明かすため、あらゆる知識に精通しています。兵法について学びたいと思えば戦場跡地に行って槍を持って走り回り、人の心を学びたいと思えば市や酒場でさまざまな人に交じって話を聞く。毒の効果を知りたいから、と自ら薄めた毒を喰らって倒れたこともありました。自由奔放に実地に行き、見て、聞いて、触れて、それらを自らの知としていく。巷では放浪の賢者などと呼ばれています」
――変人! 相当な変人ですわ! 説得できる気がまったくいたしませんわ!
ミーアのやる気がさらに八割減退した。
正直、説得とか絶対にしたくないし、会いたいとも思わない。
けれど、それでもなんとかひきつった笑みを浮かべて、ミーアは言った。
「……そう、それは……あ、頭のよろしい方なんですのね」
「はい。その知識量は帝国随一と言えるでしょう。それに、人を育てる師としても非常に優れた方です。時に厳しく、時に穏やかに我々を教え、諭し、育ててくださったのです」
――なるほど……時に厳しく嫌味を言い、時に穏やかに嫌味を言う……。緩急をつける感じかしら……。ただ淡々と嫌味でチクチクされるより、傷が深そうですわ。
いろいろな角度から、いろいろな強さで刺される。心がズタズタのボロボロにされてしまいそうな予感にミーアは震える。
言うまでもないことながら、ミーアのやる気はすでにまるでない。ミーアのやる気総量をはるかに上回るやる気が失われてしまったミーアは、心の底からルードヴィッヒの師匠に会いたくなくなった。
ゆえに、ミーアは懸念という名の反対意見を口にした。
「そっ、そんな方を学園の長にしてしまって、その、平気……かしら?」
わたくしのように心を折られる子がいるのでは? という言葉を呑み込みつつも、察しろ! とルードヴィッヒの目を見つめる。
「やめといた方が良くない?」と、目力全開で訴えかけるが……。
ルードヴィッヒはそんなミーアを安心させるかのように、優しげな笑みを見せた。
「姫殿下のご懸念はもっともです。けれど、それは大丈夫。師匠は厳しいですが、それにはいつだって納得のいく理由があるのです。たとえば、そうですね。少しでも考えればわかることを聞いたりとか、考える努力を怠った時には容赦のない叱責が飛んできますね」
――あ、ああ……実に、それは、ルードヴィッヒのお師匠さまですわ。
ミーアは死んだ魚のような瞳で、ルードヴィッヒの顔を見つめた。
――あなたは違うのかもしれませんが……納得のいく理由があってもなくっても……嫌味を言われたら人は傷つくんですのよ、クソメガネ……。
むしろ、自分が悪いとわかっていることを、改めて突っ込まれる方がしんどいのだ。
くらーい顔になるミーアを見て、ルードヴィッヒは苦笑する。
「心配せずとも大丈夫。ミーア姫殿下であれば、師匠の話にもきっとついていけます。むしろ帝国の叡智たるミーア姫殿下とまともに討論できるのは師匠だけかもしれません。師匠はミーア姫殿下のかけがえのない知己となりえるでしょう」
――そっ、そんなお友達いりませんわ! ルードヴィッヒ以上に頭の良い方とお話なんか、まっぴらですわ! どう考えてもついていけませんし……。しかも、厳しいとか、怖いとか……。絶対に会いたくありませんわ! 会いたくありませんわっ!
お腹がキリキリ痛くなってくるミーアである。
なにせ、学園長への勧誘さえ成功すればいいというものではないのだ。
もしも学園長に就任されてしまったら、ミーアは幾度も、その恐ろしく厳しい男と顔を合わさなければならないのだ。
そんなのは真っ平ごめんだ。ルードヴィッヒは一人で十分。ルードヴィッヒ以上にルードヴィッヒらしいのとなんか、会いたくもなかった。
「あっ、でも、貴族が嫌いだって言ってましたし、それじゃ、わたくしもダメじゃないかしら?」
「いえ。師匠が嫌いなのは礼を失する高慢な貴族です。しかも、既存の概念から一歩も出ようとしない頭の固い貴族です。けれど、ミーア姫殿下はそんなことはありません」
「い、いえ、わたくしも結構、頭、固いですわよ? カチコチですわ」
ミーアはこつこつ、と自分の頭を叩いて見せる。っと、
「はは、ご謙遜ですね」
冗談だと思ったようで、ルードヴィッヒは笑い声を上げた。
それにつられるように、ベルと神父も笑った。
アンヌも優しげな瞳で、ミーアを見守っている。
和やかな雰囲気だった!
――わっ、笑いごとじゃございませんわ! 笑いごとじゃございませんわっ!
ミーア一人だけ必死である。
こいつら人の気も知らないで、のんきな顔で笑いやがって、とミーアは、一人で心の中で絶叫した。
けれど、ミーアはすでに察してもいたのだ。
これはもう、会わないわけにはいかない流れだ……と。
それは、そう……。市場に引かれていく子牛にも似た気持ちだった。
――ああ、もう、これは……抵抗しても……無駄、ですわね。
ならば、無駄な労力は使わない、とばかりに、諦念に身をゆだねるミーア。
ぐんにょりと椅子の上で脱力しかけるミーアに、ふと、すぐ隣から、紅茶のカップが差し出された。
「ミーアお姉さま、このお紅茶、甘くてとっても美味しいですよ」
「あ……ああ、本当ですわね。ぐすっ……、とっても、美味しい……」
じんわりと、口の中に広がる味は、甘くって……でも、なぜか、ちょっぴりしょっぱかった。
「それでは、失礼します」
その時だった! ミーアの耳に、可愛らしい少女の声が聞こえた。
部屋にいる誰とも違う声……。そこでミーアは気づいた。
――そういえば、この紅茶、いったい、誰がいつ!?
素早く顔を上げ、あたりを見回したミーアは、まさに今、扉を開けて部屋から出ていこうとしている少女の姿を見つけた。
ミーアよりは少し年下の、恐らくは、この孤児院で預かっている少女……。
そこに、ミーアは一縷の望みをかける。
「ねぇ、ちょっと、そこのあなた……よろしいかしら?」
「はい?」
きょとんと首を傾げる少女に、ミーアは優しく語りかけた。




