第五十二話 写本≪地を這うモノの書≫
ミーアが新月地区にて、神父と戯れているのと同じころ。
「ああ、ミーアさんがいないと、なんだかつまらないわね……」
セントノエル学園、生徒会室では、ラフィーナがため息を吐いていた。
「本当ですね……。あ、ラフィーナさま、この予算なんですが、食堂関連のものを少し増やしたいってミーアさまが……」
クロエが予算の書かれた羊皮紙をラフィーナに手渡した。
「食堂関連……なにか不備があったかしら?」
首を傾げるラフィーナに、ティオーナが手を挙げた。
「あの、それなんですが……。クロエさんともお話しして調べたんですけど、しっかりいろいろな種類のものを食べないと健康に悪いという学説があって……」
そう言ってティオーナが差し出してきたのは、クロエが取り寄せた栄養学の本だった。
「たぶん、ミーアさま、これを知ってたんじゃないかって思います。ほら、ミーアさまよくキノコ、キノコって言ってるじゃないですか。ここにはキノコはすごく体にいいって書いてありますから、きっとこういう本を読まれたに違いありません」
それから、ティオーナはちょっぴり微笑んでから続ける。
「ミーアさまは頭が良すぎるから、時々説明を省いてしまう時があるんだろうって……。キースウッドさんが前に言ってました」
「ああ、そう……。たしかにそうかもしれないわ。うふふ」
遠く帝国の地にいる友人のことを思い出し、ラフィーナも微笑んだ。
「本当に生徒会長選挙の時にも、もう少し説明してくれればよかったのに。あんな風に回りくどいことをして……」
そうして、三人の女子たちは顔を見合わせて楽しそうに笑った。
……と、その時だった。
コンコンと、控えめなノックの音が響いた。
「失礼いたします。ラフィーナさま……」
「あら、モニカさん、帰っていたのね」
扉を開けて入ってきたのは、元風鴉の構成員、モニカ・ブエンティアだった。
今日の彼女はメイド服ではなく、灰色の厚手の外套を身にまとっていた。
「ただいま戻りました」
「ご苦労さま。それで、どう? 見つかったかしら?」
「はい。例の館から発見されました」
そう言ってからモニカは布に包まれた四角いものを、ラフィーナの目の前の机の上に置いた。
「そう。リンシャさんの言っていたとおりね」
「ラフィーナさま、それはいったい……」
二人のやり取りを見て不思議そうに首を傾げるティオーナに、ラフィーナは意味深な笑みを浮かべる。
「これはね……混沌の蛇の教典……『地を這うモノの書』の写本よ……」
そう言いながら、ラフィーナは布をめくった。
現れたのは、古びた一冊の本。黒いごつごつとした表紙に目をやり、ラフィーナは嫌悪に顔をゆがめる。
「私が知る限り……この写本が歴史の表舞台に出てくることはほとんどなかった。私も見るのははじめてだわ」
そうして、なにげなくラフィーナは本の表面を撫でた。
瞬間――その指先におぞましい悪寒が走った。
それはまるで、肌の上を蛇が這いまわるような感触……。指先から腕を伝い、体中を駆け巡るような強烈な不快感に、ラフィーナは思わず息を呑んだ。
「……今のは?」
自らの手の平を呆然と見つめるラフィーナ。そんなラフィーナに、モニカが心配げな視線を向けてきた。
「どうかなさいましたか? ラフィーナさま」
「……いえ、なんでもないわ」
誤魔化すように微笑んで、それから、ラフィーナは改めてモニカの報告を促す。
「ところで、モニカさん、この本の内容は、読んだかしら?」
「はい。許可をいただいておりましたので、一通りは」
「そう……。それで、どうだった?」
その問いかけに、モニカは一瞬黙ってから、
「そうですね……。端的に言ってしまうと、その本には革命によって国が滅ぶ、その過程が書かれています」
「それは……レムノ王国の革命事件を予言していたとか、そういうことかしら?」
「いえ、違います」
首を振るモニカ。その答えに、ラフィーナは眉をひそめた。
「違う……? どういう意味かしら?」
「予言書というより……、これは、なんというか……」
刹那の逡巡、その後、モニカは言った。
「そう、悪意の塊のような……」
その声は、なぜだろう、かすかに震えていた。
「悪意の……塊? それは、なんだか……、少し感覚的な表現ね」
「申し訳ありません。自分でもそう思います」
そう言うと、モニカは小さくため息を吐いた。それから、冷静さを装うような平坦な声で続ける。
「書かれている内容は、国という秩序をどのように破壊するのか、その方法論です。王権を腐敗させ、国を荒れさせる方法、人の死を蓄積させて憎悪を醸成する方法、それを土壌にして革命戦争を起こす方法……、どのようにして民衆の心を操り、王権という秩序を破壊させるのか。そうした知識がたくさん書かれた書物です」
そこで、ふいにモニカは腕をさすった。
「読んでいる内に、これを書いた者の悪意が染み込んでくるような……そんな禍々しさを感じました」
訓練を受け、常に冷静であることを求められる間諜が見せた微かな怯え……。
それを見たラフィーナは一瞬、何事か考え込んだ様子だったが……、すぐに小さく首を振った。
「いずれにせよ……、その本を分析すれば混沌の蛇の手掛かりがつかめるかもしれない。さすがね、ミーアさん」
「えっ? その本を見つけたのって、ミーアさまなんですか?」
驚いた様子で、クロエが目をまん丸くした。
「ええ、そうよ。ミーアさんは、あのジェムという男を殺さないように、シオン王子とアベル王子にお願いした。そうして私のもとに送った……。きっとこの本か、これに似たようなものを手に入れようって、思ったからに違いないわ」
「なるほど、たしかにそうですね。ミーアさまならば、当然、そのぐらいのこと考えていてもおかしくないと思います」
「ああ……そうですね。ミーアさまなら……」
ラフィーナの推測に、ティオーナとクロエが同意する。
その様子を見たモニカは……。
――とんでもない方なのね、ミーア姫殿下は……。こんな事態まで想定しているなんて……。
畏怖の念を新たに刻み込むのだった。