第二十話 新たなる地へ
数多の国家がひしめく大陸、その中央に、小さな国があった。
神に祝福を受けた国、神聖ヴェールガ公国。
大陸の民に古くから信仰されている中央正教会の本拠地であるこの国は、一切の軍事力を持っていないにもかかわらず、絶大な発言権を持っていた。
それを証明するかのように、この国には一つの『学校』があった。
セントノエル学園――近隣諸国の王侯貴族の子弟が集められた超エリート校である。
通常、自国で丁寧に、大切に育てるべき次世代の権力者たちを一つ所に集め、六年という決して短くはない期間、教育を施す。
それだけを取って見ても、この国の権威がいかに絶大なものか窺えることだろう。
この春からミーアが通うのは、そんな学校だった。
「わぁ! すっごーい!」
馬車で揺られること一週間、ようやくたどり着いたセントノエル学園を見て、アンヌは歓声を上げた。
窓に張り付き、離れようとしないアンヌを見て、ミーアは、思わず苦笑を浮かべる。
「今から、そんな様子では、疲れてしまいますわよ、アンヌ」
「で、でも、ミーア様、すごいですよ。海、ほら海が……」
「あれは、湖ですわ」
訂正しつつ、ミーアも窓の外の景色に目を移した。
緑豊かな木々が彩る道、小さな森を抜けた先に見えてくるのは、巨大な湖だった。
豊かな自然で知られる公国の、国土の三分の一以上を占めるノエリージュ湖が、降り注ぐ太陽を反射してキラキラ輝いていた。
湖の中央部には大きな島があり、そこに白く美しい、まるでお城のような校舎がそびえ立っていた。
それは、まるで、おとぎ話の舞台のような光景だった。
思わず歓声を上げたくなる気持ちもわからなくはないのだが……。
――さすがに、五年近くも見てたら、見あきてしまいますわね。
なにしろ、前の時間軸で数年間も共にした学び舎である。
その環境に文句があるわけではないけど、感動するということもない。
「ミーア様は、さすがに落ちついておられるのですね」
感心のため息を吐くアンヌに曖昧に笑い返してから、ミーアはそっと瞳を閉じた。
――これからの六年間が大切ですわ。
学園に来る前、ミーアは自らの日記帳を精査して、ここでの過ごし方を考えていた。
その結果、二つのルールを自らに課すことにした。
その一、危険には決して近づかない。特に自分のギロチンにつながりそうな人間とは出来る限り付き合わないようにする。
その二、もし万が一、帝国の改革が失敗し、不幸な革命が起きてしまった時のために、できる限り有益な人脈を築いておく。
これである。
――なにより、重要なのは危険に近づかないことですわ。東方の格言いわく、君子危うきに近寄らず、と言いますし。
自分を破滅へと追いやった憎き二人の人物の顔を思い浮かべる……と言って、別に恨みを晴らそうだとか、戦おうなどとは思っていない。
復讐だとかとんでもない!
痛い思いも苦しい思いもしたくないミーアは、怠惰なる平和主義者なのだ。
危ないものには近づかない。知り合いにならなければ、個人的な恨みを買うこともないわけだし。
――と言って、いざという時の備えをしないのも愚の骨頂。となれば、できるだけ目立たないように、コネを作って行く必要がありますわね。はて、どなたと人脈を築いておこうかしら……?
ミーアが思考に沈もうとしたところで、急に馬車が止まった。
「あいつら……」
「……ん?」
ふいに前方から、御者の苦々しい声が聞こえてきた。
「どうかなさいまして?」
「あっ、姫殿下、申し訳ございません。実は、島に渡る船に馬車を移そうとしたのですが、他国に先を越されてしまいました」
「はぁ……、それで?」
「本来であれば、我ら帝国に先を譲るべきところ、行ってそのように言い渡してきます」
鼻息荒くそう言う御者に、ミーアは小さくため息を吐く。
「……別に構いませんわ」
「で、ですが、それでは帝国の威信に……」
「順番などという細かいことにこだわっている方がよほど帝国の威信にかかわりますわ」
言いつつ、ミーアは軽く頭を抱える。
正直なところ、ミーアから見て御者の言動は痛い。実に痛い。
たかだか島に渡る順番程度で騒ぎ立てるなど、見苦しいことこの上ない。
けれど、真にミーアが痛いのは、まったく同じ行動を前の時間軸で自分がしていたからだ。
……さらに、その挙句、馬車ごと湖に落ちた。
思い出すにつけ、実に……痛い。
あの時は、とても大変だった。お気に入りの重厚なドレスを着ていったものだから、水にぬれて重くなるわ、おぼれそうになるわ……。
なんとか岸にはたどり着いたものの、周りで見ていた生徒たちに大笑いされたのだ。
今、思い出しても、羞恥の炎で灰になってしまいそうである。
かつて自分がやっていた痛い行動を目の前で見せつけられる、これほどに痛いことはない。
――なんて、恥ずかしいヤツ……。我ながら過去のわたくしをぶっ飛ばしてやりたいですわ!
「だっ、大丈夫ですか? ミーア様」
「いえ、お気になさらず。長旅でしたから、少し疲れただけですわ」
そう言って、ミーアは窓を開けた。
湖畔の風は爽やかで、まるでミーアを慰めてくれているようだった。