第四十六話 記憶の残滓~果たされなかった約束~
「学校が開校できない……」
昨夜の父娘の語らい合いで、寝不足でボーっとした頭が、ルードヴィッヒの一言で一気に覚醒する。
――ま、まぁ……、そうですわね。そんなことだろうと思ってましたわ。
すでに、ルードヴィッヒからの知らせと皇女伝とを鑑みて、大体の事態を予想していたので、衝撃はそれほどではなかった。
深くため息を吐き、それから、ゆっくり冷静に、静かな声でルードヴィッヒに尋ねる。
「それはなぜですの?」
どうせ、ベルマン子爵あたりがイチャモンをつけてきたのだろう、と予想していたミーアであったが、ルードヴィッヒの答えは予想外のものだった。
「実は、声をかけていた講師たちが次々に辞退を申し出てきました。学長をお願いしていたバッハマン卿も、宗教学の権威であるヒラーベック卿も……」
ミーアの目指す学園開校のため、ルードヴィッヒは自身の人脈をフル活用して優秀な人材を集めようとした。
皇女ミーアの名を最大限に使ったおかげで資金集めは順調、講師陣も名だたる人材が集まりつつあったのだ。
少なくとも、ミーアはそのように報告を受けていた。
「そればかりではなく、姫殿下の意向を受け、学園都市の設立に賛同してくれていた者たちも、協力を渋り始めています」
「どっ、どういうことですの? いったいなぜそのようなことに?」
さすがに、そこまでは予想していなかったミーアは、思わず椅子から腰を浮かせる。そんなミーアに、ルードヴィッヒは、ここしばらく調査してわかったことを伝える。
「まだ断定はできないのですが……、どうやら……グリーンムーン家が裏で糸を引いているようです」
「ああ、エメラルダさんのお家ですわね。ふむ……」
腕組みするミーア。
――確かグリーンムーン公爵もお父さまと同じで、エメラルダさんには甘かったはず……。となれば、わたくしがエメラルダさんにお願いすれば……。
などというミーアの考えを打ち砕くように、非情なるルードヴィッヒの指摘が入る。
「どうやらそのエメラルダさまの指示で、すべて行われているようなのですが……、ミーアさま、なにか、お心当たりはございますか?」
「なっ!」
驚愕にぽかーんと口を開けたミーアは、次の瞬間、ぎりぎりと歯ぎしりを始める。
「ぐぬぬ……。エメラルダさん……、わたくしになにか恨みでもあるんですの?」
ミーアの脳裏に、おほほと高笑いをする茶飲み友達の顔が思い浮かんだ。
ミーアが「うがー」っと絶叫していたその頃……、当のエメラルダは、ベッドの中で遅い目覚めを迎えていた。
「あふ……」
小さく欠伸をし、ぼんやりとかすんだ目で室内を見回す。微かに開いた唇から、小さなつぶやきが漏れた。
「嫌な夢を見たものですわ……」
思い出すだけで怖気が走る……、それはティアムーン帝国崩壊の夢だった。
食糧難と財政破綻、少数民族の反乱と流行り病によって、帝国が傾きつつある世界。
日々、悪化する状況に気鬱になったエメラルダは、ある日、白月宮殿を訪れる。
どのような時も変わることのない威容を誇る美しき城はエメラルダの心を高揚させ、帝国貴族としての誇りを胸の内に滾らせた。
「ああ、帝国は大丈夫ですわ……。私たちの栄光のティアムーン帝国が傾くことなど、ありえないこと」
元気を取り戻し、軽やかな歩調で宮殿内の廊下を歩いていたエメラルダは、そこで暗く沈んだ顔をする親友、ミーア・ルーナ・ティアムーンの姿を見つけた。
「あら、ごきげんよう、ミーアさま」
話しかけたミーアは、なんだかすごく疲れた様子だった。
聞けば、帝国のために、忠義に厚い文官とともに各地を走り回っているらしい。
――皇女たる者がそのようなこと、せずともよろしいのに。
わずかばかり呆れつつも、ミーアを元気づけようと、エメラルダは言った。
「そうだわ。ミーアさま、今度、当家でお茶会を開きましょう。たくさんお客さんを呼んで盛大に。そして、誇り高き帝国貴族としてこの帝国のために力を尽くすことをともに誓い合うの。ミーアさまのお好きなケーキも用意して、ね? とっても素敵ではありませんこと?」
そう言うとミーアは、嬉しそうに微笑んだ。
「それは、とてもいいですわね。では、楽しみにしておりますわ、エメラルダさん」
「ええ、ご期待にはきちんと応えますわ、ミーアさま」
エメラルダは、ミーアの表情が明るくなったのを見て、わずかに満足感をおぼえる。
「まったく、心配しすぎなんですわ。ミーアさまは……。この栄光のティアムーン帝国が、この程度でどうにかなるはずもありませんのに。頭の悪い駄犬がいかに吠え猛ろうと、無視してしまえばいいだけなのに」
やれやれ、と肩をすくめつつ、エメラルダは自らの屋敷に帰った。
その日の夜のことだった。
「エメラルダ、おい、エメラルダ……」
彼女は、ゆさゆさと体を揺すられるのを感じた。
大貴族の令嬢たる彼女に、そのような無礼が許されるはずもなし。
一瞬で怒りを沸騰させ、目を開けたエメラルダだったが……、暗い部屋に立つ人物を見て、小さく首を傾げた。
「あら、お父さま? このような夜中に、どうされましたの?」
「ああ、その、実はな……。急な話なのだが、我らグリーンムーンの者たちは、帝都を離れることになった」
「……は? 離れるとは? どういうことですの?」
「お前も聞いているとは思うのだが、帝国は危険な状況だ。それで、外国にいるわしの友だちが、避難してこないかと言ってくれてな。どうせならばその言葉に甘えようかと思うのだ」
「……よくわからないのですが、お父さま、それは、我がグリーンムーン家は、この帝国から尻尾を巻いて逃げ出すと……、そう仰っているんですの?」
かっと瞳を怒らせて、エメラルダは勢いよくベッドから立ち上がった。
「冗談ではございませんわ。我ら栄光ある四大公爵家の者が、皇帝陛下に付き従わずに、なんとします? それに、私は約束したのです。ミーア姫殿下と、お茶会を……」
「無論、わしだとて帝国が持ち直すとは思っている。だが、そのためにこそ、再起を図らなければならぬ。下賤な者どもを打ち滅ぼす力を蓄えねばならぬのだ」
そう言うと、グリーンムーン公爵はエメラルダの腕をつかんだ。
「行くぞ。時間がない」
「ですが、皇帝陛下は? それに、ミーア姫殿下は!?」
「大丈夫だ。他の四大公爵家は陛下を守り奉るだろう。その間に、我らが海の向こうで、反撃の体制を整えるのだ」
「でも、でも約束があるのです。お父さま、だってミーアさまは、あんなに嬉しそうに!」
「ええい。うるさい。いいから行くぞ」
「痛っ! お父さま、お放し下さい。私は……」
かくして、グリーンムーン一族は、海外への逃亡を果たす。
エメラルダは幾度も、帝国への帰還の方法を探ったが、ついにその機会は訪れることはなく……。
ミーアとのお茶会の約束は、ついに果たされることはなかった。
「……嫌な夢。まったく、どうしてあんな変な夢を見てしまったのかしら?」
ベッドから起きだしたエメラルダは、そのまま、寝汗で濡れたドレスを脱ぎ捨てる。
裸身をさらした彼女の後ろに、音もなく従者の少女が近づき、セントノエルの制服を身につけさせていく。
「ねぇ、あなた、本家はきちんと、私のお願い通りに動いているかしら?」
「はい。エメラルダさま。お館さまより知らせが届いております。すでに、ミーア姫殿下の学園計画に対して、妨害工作が始まっているとのことです」
「そう……。それは重畳。ミーアさま、困っておられますわね、きっと。うふふ……」
長く豊かな髪を、軽くかき上げてエメラルダは微笑む。
「すべてあなたのせいですわよ? ミーアさま。この私のこと、軽視するから、こんなことになるのですわ」
エメラルダ・エトワ・グリーンムーン。
帝国四大公爵家が一角、グリーンムーン家の令嬢は……、ミーアの親友を自任し、ライバルだとさえ思っている彼女は……、最近ミーアがかまってくれないのが、とてもとても不満なのだった。
お茶会に誘ってもあまり長くは居てくれないし、お茶会に誘ってもくれないしで、とてもとてもとても不満なのだ。
彼女は……とてもとてもとても……困った少女なのであった。