第四十五話 帝国にかけられし呪い
「ミーア姫殿下、お久しぶりです」
ミーア帰還の報を受け、ルードヴィッヒは白月宮殿を訪れた。その表情は思いのほか暗い。
それもそのはず、彼としては、こうしてわざわざミーアの手を煩わせなければならないのは、極めて不本意なことなのだ。
――だが、仕方ない。この問題は下手をするとかなり大きくなる。無理に俺が解決しようとして、傷を広げることはできない。
そうして、謁見の間で向かい合ったミーアは……少々疲れた顔をしていた。
恐らく強行軍だったからだろう。
眠たげにあくびをし、こしこしと目じりをこするミーアを見ると、ルードヴィッヒの胸にジワリと申し訳なさが湧いてくる。
――セントノエルでは、ずいぶんとご活躍だということだったからな……。
異例の生徒会長選挙への出馬。
その知らせを聞いた時は肝を冷やしたものだったが、その後の展開は彼の想像もしなかったものだった。
支持率劣勢からの、まさかの逆転劇。その裏でなにがあったのかは明らかにされていない。なんらかの取引があったのか、どうなのか。
その後のラフィーナの様子から見て、脅迫といった物騒なことではなく、あくまでも両者納得の上でだったことがうかがえる。
この度の選挙には不平を漏らす者も多いと聞く。
投票を行わずに勝利を確定させたことが不満なのだ。
剣を交えずして、なにが勝利か? そんなものは勝利とは呼べない、卑怯だ、などと声を上げる者がいるのだ。
けれど、ルードヴィッヒはそうは思わない。
戦上手な戦術家がいれば、戦が始まる前の準備段階において相手を撤退させてしまう戦略家もいる。それよりさらに前の外交段階において有利な条件を勝ち取る政治家もいる。
ミーアは、投票という戦が始まる前の段階、戦略の段階でラフィーナに勝利した……。そういうことなのだろうとルードヴィッヒは理解している。
そして、生徒会長にミーアが立候補した理由も……今になってみれば手に取るようにわかった。
――セントノエルで生徒会長を務めることで、学校運営を学ぼうとされているということか……。
そこで得られた知識を、ティアムーン初の学園都市にも活用する。
なるほど、大陸広しと言えども、学園都市などというものは、セントノエルを除いてほかにはない。手本にするならば、あそこ以外にはありえないではないか。
ミーアの思考は極めて合理的なものだったのだ。
にもかかわらず、彼女の行動の邪魔をしてしまったことが、ルードヴィッヒには、なんとも口惜しい。我が身の不甲斐なさを呪いたくなるルードヴィッヒである。
「申し訳ありません、ミーア殿下。呼びつけるような形になってしまいまして……やはり、お疲れですね」
「いえ、問題ありませんわ。ふぁ。昨夜は、お父さまが、積もる話を聞きたいとあまり眠らせてくださらなかったので……」
恐らくは気を使ってくれたのだろう。そんな冗談を言ってから、ミーアはもう一度、あくびを噛み殺して……、ちょっぴりうるんだ瞳をルードヴィッヒに向けた。
「わざわざ来ていただいたんですのね。後でこちらから行くつもりでしたのよ? あなたも忙しいでしょうから」
「いえ。セントノエルでの学業を中断させてまで、お呼び立てしてしまいました。その上で訪ねていただくことなどできません」
膝をつき、臣下の礼をとったルードヴィッヒは、ミーアの方に生真面目な視線を向ける。
「お元気そうでなによりです」
「あなたも変わりなさそうでなによりですわ。こうして顔を合わせるのは、ずいぶんと久しぶりな気がいたしますわね」
ミーアはそうして、懐かしげに瞳を細めた。
「それで、わたくしに相談したいことというのは?」
静かに話を向けてくるミーアに、ルードヴィッヒは一瞬黙り、考えてから、
「いえ、本題に行く前に、いくつかご報告しておきたいことがあります」
せっかくこうして帝都まで戻ってきてもらえたのだ。帝国の現状を報告し、指示を仰いでおきたいところだった。
なにしろ、相手は帝国の叡智。彼自身の知能の及ばぬところまで見通す存在なのだから。
「まず、ミーアさまのご命令で行ってる食糧備蓄ですが、順調に進んでいます。現状では、一年間まったく収穫がなかったとしても、全国民を最低限、飢えさせないだけの蓄えはあるのではないかと推測されます」
これは、あくまでも推測の域を出ない。なぜなら、各地の貴族たちがどの程度の備蓄をしているかがはっきりしないためだ。報告は上がってくるが、どこまで本当のことかはわからない。
「さらに、フォークロード商会からの買い上げ分を計算すれば、かなりの規模の飢饉にも対応できるのではないかと思われます」
「ふむ……。順調ですわね」
渡された羊皮紙を眺めて、ミーアは小さく頷いた。
「そしてもうすぐ収穫期を迎える小麦なのですが……、今年は収穫量が少し減りそうです」
「減る……というと、どの程度ですの?」
「はい。だいたいの予想ではありますが、昨年と比較して一割程度は減るのではないかと報告が上がってきています」
「一割……ふむ……」
ミーアは頬に手を当てて、小さく首を傾げた。
その値は、別に問題にすべき値ではなかったかもしれない。その程度であれば、翌年の収穫で十分に補うことができるからだ。
また、そもそも収穫量の減少自体、ティアムーン帝国ではよくあることでもあった。
帝国貴族には農民を蔑視する者が多い。
もともと、この地は肥沃な三日月地帯と呼ばれる、農業に適した土地だった。
種をまき、水をやり、雑草さえ刈り取っておけば、あとは適当でも実りが得られる土地。そのように言われるほどに、なんの工夫もなく収穫が見込める豊かな土地だったのだ。
そして、そこには素朴な先住民が住んでいた。
飢えることを知らず、争う必要のなかった彼らは平和な農耕生活を営んでいた。
そこに、精強なる侵略者、近郊の狩猟部族が攻めてきた。
ティアムーンの祖たる狩猟部族の者たちは、武力によって先住民たちを農奴と貶め、この地の実りを自らのものとした。
それが、ティアムーン帝国の始まりだった。
初代皇帝たる狩猟部族の族長は、自分たちのように武に優れた者たちを高貴なる者、貴族とし、農業を営む先住民を臆病者の奴隷と蔑んだ。そうすることで、自分たちの支配権を正当化したのだ。
その名残で、ティアムーンには病巣ともいえる悪しき思想が深く深く根付いている。
すなわち『この地で農業を営む者は、ほかの仕事で食っていくことのできない無能者である』という、根拠のない侮蔑が……。
農奴という制度は、すでに廃れて久しい。
農業を営む者たちが制度的に、不当に遇されることはもうない。
それはきちんとした一つの職業であり、そのことを理由に虐げられることはない。
それゆえに……、問題は逆に深刻だった。
制度に問題があれば、制度を変えればよい。
不当に地位が低いというのであれば、地位の改善をし、暴力を受けるならば、暴力をなくすよう働きかければよい。
けれど……実害がほとんどない、理由のない感情的な思い込みを正すのは難しい。
「なんとなく、やりたくない」「好きじゃない」「理由はないけど、それはよくないものだ」
そんな無意識下の思い込みが、今も人々の心に根付き、気づかぬうちに様々な行動に影響を及ぼしている。
なんの合理的理由もなく、ただ歴史的に培われた非合理な偏見によって、ティアムーン帝国の自給率は上がりにくい傾向があるのだ。
そしてルードヴィッヒは……そこに、なにか悪意のようなものさえ感じ取っていた。
まるで……この帝国が自ら死へと向かっていくかのような……。
この地の、殺された先住民たちの呪いが、帝国全土を殺そうとしているかのような……。そんな錯覚さえ覚えてしまう。
益体もない想像ながら、なぜだろう、ルードヴィッヒはその想像を笑うことはできなかった。
現に帝国内の食糧の流通は、ミーアが手を下す前までは、かなりの綱渡りだったのだから。
「……ついに、来ましたわね」
ミーアのつぶやきが、ルードヴィッヒを現実に戻した。
「来た、とは……、どういうことでしょうか?」
眼鏡を軽く直しつつ、慎重に問いかける。
「減産の理由は天候不良のようですが……」
さすがに農地をすべてなくしてしまうわけには当然いかないから、各貴族たちには領内の農地を一定以上に保つように通達が出されている。
貴族たち自身も危機は覚えているから、おおむね、その通達には従っているだろう。
「ただの天候不良が原因であれば、一年後には収穫量も回復している可能性も……」
「いえ、残念ながらそうはなりませんわ。恐らくこれは始まりに過ぎない。来年はもっと減るはずですわ」
ミーアは静かに断言する。それから、すぅっと静かな視線をルードヴィッヒに向けて、
「もしも、あなたが必要と感じたならば、備蓄を取り崩して、小麦を配給しなさい。判断はあなたに委ねますわ」
ルードヴィッヒは自らを合理主義者と認識している。ゆえに、根拠のないミーアの心配は諫めるべきかとも思ったのだが……。
それをさせないほどに、ミーアは確信に満ちた顔をしていた。
ゆえに、ルードヴィッヒは無言で頷きを返すのだった。
「以上が報告いたしたきことでした。そして、本題なのですが……」
ルードヴィッヒは生真面目な表情を崩すことなく言った。
「ミーア姫殿下肝いりの学園計画なのですが……、このままでは開校できないかもしれません」
「……はぇ?」
ミーアは、ぱちくりと瞳を瞬かせるのだった。