第三十六話 朱に交わりて……
清めの泉で、すっかり精神力をすり減らしてしまったミーアは、ふらふらになりながらアンヌの前に現れた。
「ミーアさま、大丈夫ですか?」
「ええ、問題、ございませんわ」
「そうですか……?」
首を傾げつつも、てきぱきとミーアの髪を拭いて、それから聖衣を着させていくアンヌ。
すべての作業を終えて一歩下がって全身を見てから、満足げに一つ頷いて……。
「ミーアさま、頑張ってくださいね」
元気づけるように言う。
けれど、それを聞くミーアは、どこか上の空だ。
先ほどのラフィーナの恐ろしい顔を見て、すっかり魂が抜けかけているのだ。
「あ、それとミーアさま、以前も申しましたが、ベールは軽くて落ちやすいので動く時には気を付けてくださいね」
「……はぇ? あ、え、ええ。わかりましたわ。ありがとう、アンヌ」
そこで、ようやく、口から抜けかけていた魂が戻ってきた。
ミーアは自らの格好を見て、ふっと疲れた笑みを浮かべた。
――ああ……負け戦ではありますが、将が戦場に行かぬわけにはいきませんわね……。
生徒会長選挙。
それは、投票と厳かなる儀式によって構成される学校行事だった。
会場となる大聖堂、前方には大きな聖餐卓が配置されている。卓の上には大きな銀の盃が置かれ、そこには血のように赤い葡萄酒がなみなみと注がれている。
それは聖人の血を表すものだった。
生徒会長に選出された者は盃から葡萄酒を飲み、聖人の血をその身に取り込むことで、清廉潔白、公明正大な会長になることを、神の前で誓うのだ。
すでに、大聖堂には生徒たちが集まっていた。
最後に現れた立候補者たるミーアとラフィーナの入場によって、投票の儀は始まった。
いくつかの聖歌を歌った後、立候補者の最後の演説の時となる。
先に演説をするのはミーアだ。
聖餐卓の前に進み出たミーアは、静かに生徒たちに目を向ける。っと、その時だった。
「ミーアさま、頑張れっ!」
いくつかのそんな声が、耳に入ってきた。
セントノエル学園において、生徒会長選挙は神聖なる儀式だ。
当然、立候補者への声援などもってのほか……ではあるものの、まぁ、でも、中央正教会の神さまは寛容なので、この程度のことではお咎めはない。
「これこれ、静かにしなさい」
会を取り仕切る司祭が少しばかり注意するぐらいで、退場処分などにはなったりしない。
ミーアは声援が聞こえてきた方、腕に赤い布を巻いた一団――自らの支持者たちの方にそっと目を向けた。
――てっきり、みなさん、諦めて、早々に離れて行くと思ってましたのに……。
完全なる負け戦。にもかかわらず彼らは団結し、誰一人脱落することなく、ミーアに付き従ってきてくれた。
一緒に選挙期間を駆け抜けた者たち、ともに苦労し、声を上げ、笑いあう、そんな思い出が脳裏をよぎり、ミーアは静かに微笑みを浮かべた。
――なんだか、ちょっと楽しかったですわ。
思えば前の時間軸では、こんな風にして学校の行事を楽しむことなどなかった。
かつての近衛に負けない忠義者たちに心からの感謝をこめて、ミーアは深々と頭を下げる。
――ありがとう。いずれあなたたちの忠義には、必ず報いさせていただきますわ……。
と、その時だった。
ふいに、ミーアの頭にかかっていたベールがするりと滑り落ちた。
「あっ……」
ベールは風に流されて、そのまま、ちゃぽん、と銀の盃の中に落ちた。
見る見る、純白のベールは血を吸ったかのように赤く染まっていく。
――ああ、もう、最後までしまりませんわね……。
ミーアは慌てて、そのベールを拾い上げようとして……、
「……え?」
ふわり、とその頭に真新しいベールがかけられる。そして、ミーアの横から伸びた手が、そのまま濡れたベールを拾い上げてしまった。
恐る恐るそちらに目を向けたミーアは、驚愕のあまり固まる。
「らっ、ラフィーナさま?」
自らのベールをミーアの頭にかけたラフィーナは、そのままミーアの濡れたベールを軽く絞り、聖衣が汚れるのも気にせず、自らの腕に巻いた。赤く染まったベールを腕に巻き付ける、それは――証。
ミーア・ルーナ・ティアムーンを支持するという、その表明!
「らっ、ラフィーナさま、これは……」
傍で見ていた司祭の方をちらりと見て、それからラフィーナは一歩前に進み出た。
「私を支持してくださったみなさま、申し訳ありません。私、ラフィーナ・オルカ・ヴェールガは今ここに、生徒会長への立候補を取り下げ、我が友、ミーア・ルーナ・ティアムーンを、生徒会長に推薦いたします」
凛とした声で、ラフィーナは宣言する。
「らっ、ラフィーナさまっ!」
長いセントノエルの歴史の中で、このようなことはただの一度もなかった。
投票日の当日、最終演説を前にしての立候補取り下げ。しかも、それをしたのが現生徒会長にして、ヴェールガの公爵令嬢たる者であるなど……。
あまりに常識外の事態に、悲鳴のような声を上げる司祭。
騒然とする生徒たち。
そんな中、ラフィーナはミーアの方に顔を向けた。
そのまま悪戯っぽい笑みを浮かべると、ちらっと小さく舌を出した。
――こっ、これは、いったい……? なにが、どうなっているんですの?
ミーアは、ただただ混乱しつつも、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
セントノエル学園において、選挙は神聖なる儀式だ。それは、神の前にささげられる厳かなるものだ。
けれど、中央正教会の神さまは寛容をもって知られている。
その行動が悪ふざけに類するものであれば当然裁かれもするし、儀式自体が無効と判断されることもある。
しかしながら、もしもその行動が真摯で、誠実な思いからの行動であるとするならば……、いかに儀式の慣習から外れようと許容される。
そう、開会の儀式の宣言において、セリフを噛もうとも……。
あるいは、投票の儀式において、常識外れの方法で立候補を取り下げても……。
かくて、セントノエル学園に新生徒会長が誕生した。
ミーア・ルーナ・ティアムーン。
帝国皇女の生徒会長就任は、決して少なくない影響を歴史に及ぼしていくのであるが、それはまだ先の話である。