第三十五話 涙に潤んだ二人の瞳
「ラフィーナさまは、ぜんぶ一人でしてしまうんですのね!」
「…………え?」
ミーアに言われたその一言、それは確かにラフィーナの意表を突いた。
「ミーアさん、それはいったい……」
その問いかけに振り返ることなく、ミーアは行ってしまった。
それでラフィーナは、自分がミーアを怒らせてしまったことに気が付いた。
「ミーアさん……どうして?」
なぜミーアが怒っているのか、ラフィーナにはわからなかった。見当もつかなかった。
――本当に、そうかしら?
彼女の中、ほかならぬ自分が問いかけてくる。
ミーアの言葉が脳裏をよぎる。先ほど、水を浴びている際に、ミーアは言ったのだ。
言いづらそうに、少しだけ心配そうな様子で……。
「ずいぶんとお疲れの様子ですわね、ラフィーナさま」
――私のことを、心配してくれていた……?
そのことに気づいた時……、ラフィーナはミーアが、なぜ怒っているのかに気が付いた。
――ミーアさんは、私のことを心配して……私の負担を軽くするために……?
最近のラフィーナは、確かに少し疲れていた。
ただでさえ多忙なことに加えて、混沌の蛇の存在が彼女への負担を大きくしていた。
そんな彼女のことを、ミーアは、ずっとずっと友人として気遣ってくれていたのではなかったか?
ヴェールガ公爵令嬢としての役割を代わりに担うことはできない。
邪教の秘密結社たる混沌の蛇に対抗する者たちを統率するのも、ヴェールガの聖女たるラフィーナの仕事だ。
けれど、生徒会長は……そうではない。
ミーアは自身が唯一担えるラフィーナの仕事を共に担おうと、そう、手を差し伸べてくれていたのではなかったか?
友とはなにか? それは重荷を分かち合い、苦楽を共にする者だ。
ミーアはまさに、ラフィーナの友たらんと行動していたのだ。
ラフィーナを絶対視せず、特別扱いしない友達だから、ミーアは立候補を表明した。
ラフィーナの隣に立つ者として……。その重荷を共に分かち合うために。
そうして、ラフィーナは気づく。
ミーアの選挙公約……。かの帝国の叡智の提示した選挙公約はラフィーナと大差ないもの。
ほとんど同じといっても過言ではない程度のものだった。
レムノ王国の革命を止め、自国で次々と改革を行ってきた……あの帝国の叡智の冴えが、その程度にとどまるものだろうか?
――まさか、わざと……?
革新的な政策を提案することなど、実は簡単なことではなかったか?
にもかかわらず、ミーアは、あえてラフィーナの施政をなぞるような政策を提示した。
なぜなら、それはラフィーナを負かすことを目的とはしていないから。
あなたの仕事を引き継ぎ、あなたの重荷を背負いましょうというミーアからのメッセージだったから。
ラフィーナが、安心してミーアに仕事を任せられるような、そういう配慮から。
――それなのに、私、ミーアさんに、なにを言ったの……?
ラフィーナは、自身の言葉を思い出して……愕然とした。
勝てないから、立候補を取り下げろと……。
ラフィーナの負担を共に担おうと、手を差し伸べてくれたミーアの……、その手を振り払うかのようにして……。
大切なお友達に……傲慢にも慈悲を与えようとした。
――もしかしたら私は、お友達だなんて言って……ミーアさんのことを信用していなかったんじゃないの……?
「あ……み、ミーアさん…………」
口からこぼれ落ちた声は思いのほか弱々しくて……小さく震えていた。
去り行く背中に手を伸ばしかけ、その手は、けれど空を切る。
いったい、どんな言葉をかけられるというのだろう?
どんな顔をして、話しかければいいのだろう?
――今さら、お友達だなんて、都合が良すぎる……。
そう思った時、もはや声は出てこなくって……。
ラフィーナが絶望の渦に飲み込まれそうになった、まさにその時!
ふいにミーアが立ち止まった。
「ラフィーナさま……、わたくし思うのですけど……」
振り返りもせずミーアは言った。
「お友達って多少の過ちや、失礼を許しあってこその存在だと思いますわ」
「…………ぇっ?」
耳に届いたその言葉が、信じられなくて……ラフィーナはかすれる声でつぶやく。
――ミーアさんは……私のことを、許してくれるというの? でも……。
「"お友達"とはそういうもの……。ですわよね、ラフィーナさま」
そう言ってミーアは振り返り、はにかむような笑みを浮かべた。
――お友達……。これが、私のお友達……?
瞬間、ラフィーナは理解する。
確かに目の前の少女、ミーア・ルーナ・ティアムーンが、紛れもなく自身が求めていたお友達であるということに。
ずっとずっと、こんな風にわかりあって、心を許しあえる人を求めていたのだということに気づいて……。
「…………っ!」
ふいに、ラフィーナの視界がぐにゃりとゆがむ。
その美しい瞳には、じわりと大粒の涙が浮かび上がっていた。
咄嗟にラフィーナはうつむき、唇を噛み締める。
――どうして、涙が? なんで、私、泣いてるの?
人前で泣くことなど滅多になかったラフィーナは、自分自身の堪えようのない感情に、翻弄されて戸惑ってしまった。
――嬉しいのに、どうして……? こんな顔、ミーアさんには見せられないわ……。
なんとか、我慢しようとする。けれど……、涙は後から後から湧き出してきて、止めようがなくって、気づけば、鼻もくすん、と音を立て始めて……。
ラフィーナは、くるりと踵を返し、泉に歩み寄ると、冷たい水で顔を洗った。
ばしゃばしゃと、頭から水をかぶり、目元をごしごし、何度もこすって……。
それから、改めてミーアの方を見た。
ありがとう、も、ごめんなさい、も言葉にはできなかった。
声を出してしまったら、また、涙で震えてしまいそうだったから。
ただ、精一杯の泣き笑いを浮かべて、ミーアを見つめる。
――ああ、ミーアさんとお友達になれてよかった……。
その美しい瞳は涙のせいで、ほのかに赤く染まっていた。
「ミーアさん……」
その声を聴いた瞬間、ミーアの頭がすっと冷えた。
ぞわわっと背筋に走る悪寒……。
その身を戦慄が駆け抜ける!
いつでも落ち着き払い、穏やかだったラフィーナの声。その声が震えていた。
ミーアは今までの自身の行動を顧みて……、悟る。
あ、これは、やらかしたぞ? と。
やけくそになり、思いっきり皮肉をぶつけた挙句、ラフィーナの呼びかけを無視してしまった。
結果、ラフィーナは声を震わせるほどに――怒っている!
名前を呼ぶぐらいしかできないほどに、激怒! 怒り狂っている!
――ひっ、ひぃいいいいっ! ままま、まずい! まずいですわっ!
ミーアは完全に忘れていた。
選挙で負けようが、なんだろうが……そこで世界が終わるわけではない!
ラフィーナを怒らせていいはずがないのだ!
――ど、どどど、どうすれば? どうすればいいんですのっ!? もう、さっきのわたくしのバカっ!
ミーアは懸命に考える。
なんとか、先ほどの自身の行動の言い訳をしようと、考えて、考えて……結果!
「ラフィーナさま、わたくし思うのですけど……」
怖くて、ラフィーナの顔が見られない。なので、背中越しに、ミーアは必死に訴えかける!
「お友達って、多少の過ちや、失礼を許しあってこその存在だと思いますわ!」
ミーアとラフィーナはお友達。ならば、そう!
お友達の条件に、無礼を許しあうというものを含めてしまえばいいのである。
ミーアはそこに活路を見出した。そうして勝手に定義を決め、押し付けて、その上で、ミーアは続ける。
「"お友達"とは、そういうもの……。ですわよね、ラフィーナさま」
お友達になろうと言い出したのは、あなたの方ですよね? ということは、許さないわけにはいかないですよね?
……などという、先に申し入れた方の弱みにつけこんだ論法である。
実に姑息である。
その上で、ミーアは笑みを浮かべた。
ちょっとうっかりやっちゃったけど、許してね! という誤魔化しの笑み。
そう、いわゆる"てへぺろ!"である。
それを見たラフィーナは、そっとうつむいた。
よく見るとその美しい肩はフルフルと震え、しかも、ぎゅっと唇を噛み締めている!
――ひ、ひいいいいっ! やっぱり、すごく怒ってますわ。やばいですわっ!
素直に謝るべきだったと後悔するミーアであるが、その言葉を待たずにラフィーナはくるりと踵を返した。
そのままずんずん、と泉の方に向かって歩いていくと、その水を思い切り頭からかぶった。
――そっ、それほど? 頭を水で冷やさなければならないほどに、ラフィーナさまの怒りは深いんですの?
そのまま、くるりとラフィーナは後ろを振り向いた。
それから、無理矢理に笑みを浮かべる。
怒りからか、頬はひくひく震えていて、なにより、その瞳は真っ赤に染まっていて……。
――ひぃいいいっ! ここ、怖いですわ……。ラフィーナさま、目を真っ赤にするほど怒ってらっしゃるのですわね。けれど、お友達だから、許そうと……。そのような葛藤をされているのですわね。これは、なんとか、許していただけたのかしら……。
その笑みを見て、一応は安堵のため息を吐くミーアであった。
――ラフィーナさまとお友達になっておいて、よかったですわ……。
ミーアの瞳は恐怖のあまり、わずかに涙ぐんでいた……。