第三十話 サフィアスさん、呼び出しを受ける……
「くそ、くそくそくそっ! あいつら、ナメやがって、くそがっ!」
部屋に戻ったサフィアスは、ベッドの上に置いてあった枕を殴った。ぽすぽすと気の抜けた音が室内に響く。
しばらく暴れて、虚しくなったサフィアスは、はぁーっと深いため息を吐いた。
「俺は……、生徒会の役員にならなければならないんだ。こんなところで、つまずくわけにはいかないというのに……」
極めて深刻な、追いつめられたような顔でつぶやく。
それから、サフィアスは机に目をやった。
机の上には、一通の書きかけの手紙が置かれていた。
それは……、
愛しのマイハニーへ
元気にしているかな?
俺の方は変わらず健康に過ごしている。ただ、君に会えないので、気持ちが落ち込むことが多いけれど。
そんな文面で始まる、甘い……甘ーい! ラブレターだった!
そう、なにを隠そうこのサフィアス、幼い頃より定められた許嫁がいるのだ。
それはさほど珍しいことでもなかった。互いの家同士を結び付ける婚姻は、貴族社会という政争の場では重要な要素だ。
時に家柄、時に財力、時に武力。様々な打算のもと、婚姻関係は結ばれていく。
その中には、望まぬ結婚というものも数多く存在しているのだが……、サフィアスの場合は……意外なことに相思相愛だった。
それはもう、手紙でイチャイチャ、どこかに出かけてイチャイチャ、お互いの家に行ってもイチャイチャ、イチャイチャ……。
同じ空間に置いておくと胸やけするから、と互いの親族がげんなりするほどのバカップルっぷりを誇っているのだ。
お相手は、四大公爵家には劣るものの伝統と格式のある侯爵家であり、血筋的には申し分なく、見た目も可憐でお淑やか。
しかも、サフィアスのことを尊敬できる立派な青年と思う程度には、その恋愛レンズは歪んでいた。
結果、生まれたのは理想的大貴族のカップルだった。
ちなみに、その恋愛脳的メンタリティは、ミーアに非常に似ているのだが、もちろん当人たちは認めようとはしない。
まぁ、それ自体は問題ないのだが、問題だったのはサフィアスが「生徒会役員になる」などと、大口を叩いた手紙を許嫁に送ってしまったことだった。
「今さら、あれは間違いだったとでも言えというのか? そんな恥ずかしいことができるわけがない!」
頭を抱え、うおーっと叫ぶ。
恋に悩める男の、悲しい叫びである。
ちなみに……彼と同室の従者の少年、名をダリオというのだが……、サフィアスの婚約者の弟である。姉のコネによって、サフィアスの従者としてセントノエルに来て、大陸最高峰の教育を受けている。
本人的には、それは大満足なのだが……、時折、こうして、姉へのラブレターで悩みまくる将来の義兄の姿を見せられるという、結構な地獄を味わっていた。
「なぁ、ダリオ。どうすればいいだろう? 俺は許してもらえるだろうか?」
「あー、たぶん大丈夫じゃないっすかね……。姉さん、結構、適当なところあるし」
微妙にやる気のない返事を返すダリオ。
家に帰れば帰ったで、姉からサフィアスとののろけ話を聞かされるので、彼としては、この程度の失敗で姉の好意が薄れることはないと思うのだが……。
「いや、だが、やはりメンツが……。ぐぐ、くそ、おのれ、ミーア姫殿下。俺の言うとおりにしておけば、上手く恩さえ売れれば、うぐぐ……」
そんな、ダリオにとってなんともいたたまれない時間は、けれど、長くは続かなかった。
部屋のドアを、礼儀正しくノックする音が響いたのだ。
「おっと、ちょっとすみません。サフィアスさま」
「様、などと他人行儀に呼ばなくともいいぞ? 俺たちは近いうちに兄弟になるわけだし……」
「はい、わかりました。サフィアスさま」
ダリオはこれ幸いにとドアの方に向かい……、そこに立っていた男に首を傾げた。
「失礼いたします。サフィアス・エトワ・ブルームーンさま。ラフィーナさまがお呼びです」
その言葉に、サフィアスは、
「……はぇ?」
ただただ、首を傾げた。
それは地獄からの使者……もとい、学園の支配者、ラフィーナ・オルカ・ヴェールガの使者だった。
「らっ、ラフィーナさま……。あの、わたくしめに、なにか……?」
サフィアスが連れてこられたのは、生徒会室だった。
憧れの生徒会室に足を踏み入れたサフィアスだったが……、満足感に浸るような余裕はなかった。
なぜなら、すぐ目の前、椅子に深々と腰かけたラフィーナが、嫣然たる笑みを浮かべて、ティーカップに口をつけていたからだ。
通常、呼び出しておいて自分だけ紅茶を楽しんでいる、などということは許されない無礼だ。もしも、それが成立してしまうとしたら、それは、呼び出された側に相応の非がある場合のみであって……。
そして、サフィアスには、それに心当たりがあった。
いや、まさか、バレるはずがない……。そうは思っても、なんとも落ち着かない気持ちになってしまう。
そんなサフィアスの心情を知ってか知らずか、ラフィーナは静かに、紅茶の色を確かめるようにティーカップを見つめていたが……。
「あ……あの?」
「ふふ、ごめんなさいね……。ただ、少し考えていたの」
「へ? え、えーっと、なにをでしょうか?」
「こんな時、私のお友達ならどうするかなって」
「えーっと? それは……あっ!」
そこで、サフィアスは気づいた。
ラフィーナの後ろに立っている少女……。顔を真っ青にした彼女こそが、ラフィーナの悪口を喧伝するために、買収したはずの人物であるということに。
「なんだか、いろいろと裏でやろうとしていたみたいだけど……もう少し隠れてやらないと、身を滅ぼすことになるわね」
凛と美しい声で言って、ラフィーナはようやくサフィアスに目を向けた。
清らかな、山の朝露のような澄み切った視線を向けられ、サフィアスは震えあがった。
『すべてお見通し……』
ミーアに言われた言葉が脳裏を過ぎる。
――まっ、まさか、本当に?
驚愕に固まるサフィアスに、ラフィーナは、いっそ優しいといえるような口調で、
「でも、どうするべきかしら……。私はね、サフィアスさん、悪人は裁かれるべきだと思うの。もちろん、人は過ちを犯すもの、そこに慈悲は与えられるべきなのかもしれないけれど、あなたは、公爵家の長男でしょう?」
けれど、凍えるほどに冷たい、氷の視線で、サフィアスを突き刺した。
そう、ゾッとするほど澄み渡り、純粋で……、けれども温かみのない視線で……。
「国は違えど、私と同じ身分。当然、その身分に相応しく、きちんと自分の行いには責任を取らなければならない……。そのぐらいのことは、あなただってわかっているでしょう?」
サフィアスは、震え上がった。
たかが小国の公爵令嬢と侮っていた少女は、裁きの剣を突き付けてくる、聖い神の執行官だった。罪は許さず、必ず裁く。断固たる意志がラフィーナにはあった。
けれど、その口調がふっと緩む。
「ミーアさんは、あなたのことを許すんでしょうね。ここは学校、教育の場所。一度の過ちで退学になどしたら可哀そうって、きっとあなたのことを憐れむはずだわ」
罰には二つの役割がある。
加害者を痛めつけることで被害者の心を慰めることと、過ちを犯した者に対するお仕置き……すなわち教育するということ。
「うーん、今回の被害者は、私ということになるのかしら?」
頬に手を当て、きょとんと首を傾げるラフィーナ。
「でも、被害者になり損なってしまったのね……。ティオーナさんの時と同じ。被害者の心を慰める必要がないのであれば、過ちを犯した者に悔い改めを迫ればいい」
サフィアスの知らないことを言って、それから、くすくすとラフィーナは笑った。
「ねぇ、サフィアスさん、ミーアさん、なにか言っていたかしら?」
「正々堂々とラフィーナさまと戦うと……、言っておりました」
従者の言葉は、主の言葉。それが貴族の常識だ。
そして、サフィアスにとって、ティオーナごとき貧乏貴族は、従者も同じ。
ゆえに、ティオーナが勝手に言った言葉は、ミーアの言葉として、ラフィーナに伝えられる。
「ああ……そうね。そう言うでしょうね、ミーアさんなら。そういう人だものね、私のお友達は……」
ラフィーナは、そこで悲しそうなため息を吐いた。
「ああ、それなのに、どうして私の誘いを受けてくれなかったのかしら……」




