第八話 ミーアの新春怪談ナイト
歩き始めてすぐミーアは喉の渇きを覚えた。
「……部屋に水差しが用意してあったはずですわね……」
いつも寝る前にアンヌが用意しておいてくれたものがあったはず……とは思うものの、一度寝れば、まず夜のうちに起きることはないミーアである。
夜中に目が覚めて水を飲む経験など一度もない。ゆえに、机の上に置いてある水差しの中身が、夜のうちに用意されたものか、朝一番にアンヌが汲んできてくれたものなのか、いまいち自信が持てなかった。
実際には寝る前に汲んで、朝起きたら汲みなおしているアンヌである。忠臣である。
それはともかく……、
「……ああ、部屋に帰ってもしもなかったら、喉が渇いて眠れなくなりそうな気がいたしますわ……」
一度気になりだすと、止めることができない心配性なミーアである。飲んだら飲んだで、またトイレに行きたくなりそうではあるが、今はとにかく水が飲みたかった。
――ここから食堂までは、そんなに離れておりませんわ。一度、部屋に戻るよりは……。
食堂には、いつでも飲めるように湧水が引いてある。さすがに水が豊富にあるヴェールガ公国だけあって各部屋に引くまではいかずとも、全体的に水関係の設備は整っていた。
トイレまで何事もなく来ることができたのが、ミーアの気を大きくしたのだろうか。
ミーアは、そのまま食堂の方へと足を向けた。
…………まるで、何者かに、誘い込まれるかのように。
食堂の入口まで来た時……、
「あら? 何かしら……」
ミーアの耳が捉えた音、それは、すん、すん、と鼻を鳴らすような……音で。もっと言ってしまうと、それは、女の子が泣いているような…………。
瞬間、ミーアの脳裏に昼間に聞いた話が蘇る。
自ら命を絶った女生徒の幽霊の話が……!
「ま、まさか、ありえませんわ、そんなの絶対に……」
踵を返し、逃げ出すべきだった。
けれど、ミーアは、ついつい見てしまった。
音の鳴っている方を……。
「ひっ!」
思わず、ミーアは息を呑んで固まる。
そこにいたのは、一人の少女だった。年のころは、恐らくミーアより少し年下といったところ。
ボサボサに伸びた髪、ボロボロにすり切れた服と薄汚れた肌は、セントノエルの学生には相応しくない、貧民街の住人のような格好だった。
けれど……、それ以上にミーアの目を引いたもの、それは、少女の体中を染め上げる赤い色だった。
食堂を照らす明かりは、決して強くはない。にもかかわらず、その赤は、ミーアの目に焼き付いた。
頭から上半身にかけて滴る赤い液体……、それは、まるで……!
「ひぃいいいっ!」
ミーアは絶叫したつもりだった。
けれど、口から出てきたのは、かすれたような、か細い悲鳴だけだった。
――なっ、なっ、なんですのっ!? あれ、ち、血まみれの女学生の幽霊!? ひぃいいっ!
よたよたと食堂から転がり出ると、ミーアは自室を目指して走り出した。
室内靴がどこかに飛んでいくが、そんなものに構っている余裕はない。
裸足で廊下の床をけり、全力で走ろうとする……けれど、まるで悪夢の世界にいるかのように、体はなかなか前に進んでいかなかった。
そして、気のせいだと思いたかったのだけど……、
――ひぃいいいいっ! ななな、なにかが、何かが追いかけてきてますわっ!
すた、すた、という足音が、ミーアの後をつけてきていたのだ。その足取りは、ミーアより確実に早い。
徐々に近づいてくる足音に泣きべそをかきながら、ミーアは自室に逃げ込んだ。
「アンヌっ! アンヌぅっ!」
弱々しい悲鳴を上げつつアンヌのベッドに飛び込む。けれど、なぜかベッドには誰もいなかった。
「アンヌ、ど、どうしてっ! どうして、いないんですのっ?」
その時、ふいにミーアの脳裏にいやぁな想像が過ぎる。
この世界に、自分と得体のしれないナニカ以外いなくなってしまったような……。
そんな話を、前の時間軸で聞いたことがあったような。
あの時、楽しげに怖い話大好きなドーラが話していたような……。
――どっどど、どうして、こんな時に、そんな怖い話を思い出すんですのっ!? そんなのありえないですわ! きっと、そう! 目が覚めた時に、わたくしがいなくなってたから、心配になって探しに行っただけですわ。みんないなくなってしまったなんて、そんな怖いこと……。あっ。
その時、ミーアは重大なミスに気づいてしまった。
――か、カギ、かけ忘れて……ひぃっ!
瞬間、ガチャリ、とドアが開く音。
ミーアは慌てて毛布をかぶり、必死に目を閉じた。
――きっきき、きっと、アンヌですわ。アンヌが帰ってきたのですわ。そうに違いありませんわ……! それ以外に、ありえませんわ。ありえませ……ひんっ!
のそり、のそり……、なにかがベッドに上ってきた。
――お、おかしいですわ。アンヌだったら、わたくしに、ひと声かけるはずですわ!
恐る恐る、ミーアは薄っすらとまぶたを開ける。と、そこには……、真っ赤な何かに染まった少女の顔が、すぐ近くに見えて、こちらを覗き込んでいてっ!
――ひっ、ひぃいいいいっ! あっ……。
かくん、と、ミーアは意識を失った。