第百五十五話 眼鏡を拭いて、曇りを取って……
ルードヴィッヒは静かに眼鏡を外した。
はーっと息をかけ、きゅきゅっきゅっとレンズを拭いて、しっかり透明度を取り戻したのを確認してから、かけ直す。
そうして、視界をクリアにしてから、改めてミーアのほうに目を向けた。
帝国の叡智の光り輝く姿を、しっかりとその目に刻むために……。
――やはり、ミーア姫殿下は素晴らしい……。
もはや、驚きの感情はなかった。
その胸を占めるのは、どこか誇らしい気持ちだった。
そうなのだ、サンクランド最大の門閥、オリエンス大公家……。その面々を前に、堂々たる立ち回りを見せたミーアを、ミーアエリートを代表して随伴しているルードヴィッヒは心の底から誇らしい気持ちで見つめているのだ!
――まぁ、ヴェールガ公やエイブラム陛下にも気後れすることなく立ち回られたミーアさまだから、今さら驚くには値しないかもしれないが……それでもこの立ち居振る舞いは、見事としか言いようがない。
とりあえず、帝都に戻ったら仲間内で披露してやろう! っと心のメモ帳にしっかり記録するルードヴィッヒである。師匠にも良い土産話ができたなぁ、とほくほく顔のルードヴィッヒなのである!
――それにしても、ミーアさまのお言葉には、いったい、どれほどの深みがあるのだろうな……。
先ほどのナホルシアにかけた言葉から、紅茶の件に至るまで……その言葉の説得力を前に、オリエンス家の優秀な者たちが、次々と心動かされる様は、実になんとも爽快なものだった。
――シオン王子の言葉で、サンクランドの政治的な問題については、ほとんど解決したかに見えたが……問題の本質を素早く見抜いて誘導した。しかも、そこから、レムノ王国の講師探しにまで話を繋げてしまうとは……。しかも、あの説得の仕方……。
アップルパイと紅茶を用いた見事な例え話を思い出し、ルードヴィッヒは思わず唸ってしまう。
――オリエンス大公家は、その役割から、ヴェールガ公国とも近しい家柄。神聖典のたとえを連想させるあのたとえは、わかりやすかったのではないだろうか……。
そう思った刹那、ルードヴィッヒの胸に宿ったのは……、
――思えば、ミーアさまは、お会いしたばかりの頃から聡明な方であったが……いささか常人にはついて行き難い思考の飛躍をされる方だった。天才ゆえの説明不足の感が否めなかったものだが……。相手に寄り添ったたとえ話をすることが最近増えてきた気がするな。
なんとも言えない感慨だった。それは、成長した弟子を見守る師のような感情……。
相手は帝国の叡智なのに? 彼女に教えを施したことなど、一度たりともないのに……?
――なぜ、こんな感情を……。これは不敬……になってしまうだろうか。だが……。
それでも抑えきれない嬉しさを噛みしめつつも、ルードヴィッヒは思う。
――すでに十分に叡智を持っておられるのに、なおもその成長は留まるところを知らず、か。女帝となられた折には、相手にわかりやすく伝える術は絶対に必要な技術になるとはいえ、こうも容易く、それを身に付けられるとは……。
軽く苦笑いを浮かべつつ、ルードヴィッヒは首を振る。
――もう、私の役割はあまり残されていないかもしれないな……。
なんと! ルードヴィッヒ、そんなことまで、考え始めちゃった!
なにげに過去最大の帝国の危機かもしれない! やっべぇかもしれない!
っと、その時だった。
不意に、アンヌが歩み寄ってきた。ミーアに、シュシュっと顔を寄せ……。
「ミーアさま……さすがに、もう、これ以上は……」
見ると、ミーアは大皿に残っていた最後のアップルパイに手を伸ばそうとしていた!
なるほど、これだけ頭を使う場だ。運動するのと同じぐらい、体力を使うのだろう。とルードヴィッヒは納得するが……。
アンヌは真剣そのものの顔で首を振り、
「甘い物を食べ過ぎると、お体に障ります……ベルさまも」
アンヌがミーアを止めている隙に、フォークを伸ばそうとしていたベルが、びくんっと手を止める。
ちなみに、ルードヴィッヒも見ていたが……ベルとシュトリナも四枚目である。食べ過ぎである。きっとあのアップルパイはとても美味しいのだろう。
「あ、あら……おほほ、わたくし、そんなに食べておりましたかしら? お話に夢中で、ぜーんぜん、気付いておりませんでしたわ、おほほほ」
などと笑みを浮かべるミーアに、
「今夜のお食事はお野菜を多めにしていただいて、あとは、寝る前にも少し体を動かしましょう」
「野菜……う、ううむ、そうですわね。ちなみに、野菜ケーキなどは……」
「キノコと野菜のスープとか、そういったものを用意していただくのはいかがでしょうか? 体に良いとも聞きますし……」
「おお! キノコ……そうですわね。ふむ、みなでキノコ狩りに行くのだとすると、事前に、どんなキノコがあるのかチェックしておくのもよろしいのかしら……」
「はい。それに、アベル殿下もいらっしゃるのであれば……その……」
っと、言葉を濁したアンヌに、ミーアは思わずハッとした顔をする。
「そっ、そうですわね。ええ、まさにアンヌの言うとおりですわ。今夜は少し控え目にしていただきましょう」
そんな二人のやりとりを見ながら、ルードヴィッヒは目が覚める思いがした。
――すごいな。ミーアさまに、あんなに自然に諫言を……。でも、そうか。確かにミーアさまご自身の健康のことや、ご子息の健康のことなどは、周囲の者が目を配る必要がある、か……。
そこで、改めてルードヴィッヒは思った。
――そうだった。ミーア姫殿下はいつもおっしゃっているではないか。国は一人では回らない。自分が手を下さずとも回っていくのが理想の国であると……つい先ほどおっしゃっていたではないか。昼寝をしていても、などと……帝国の叡智には絶対にあり得ぬ状況の冗談を交えながら……。
ふぅ、っと自らを落ち着けるように深く息を吐き……。
――ミーアさまが、ミーアさまにしかお出来にならない仕事に集中するために、そのご負担をできる限り減らしていく。おそばでする仕事は、まだまだありそうだ。
軽く眼鏡を押し上げてから、ルードヴィッヒは改めて考える。
――しかし、アベル王子にどのような手紙を送られたのかと思っていたが……。
思わず、といった様子で、ルードヴィッヒはつぶやく。
「さすがはミーアさまだ……。ソルサリエンテにいる時から、このように事態が推移することを完璧に予測していたとは……」
まさか、このように完璧に推移を計算しているとは、さすがのルードヴィッヒも読み切れなかった。
――考えてみれば、レムノ王国の女学校については、ミーアさまは部外者。筋を通すうえで、クラリッサ姫殿下に直接、言葉をいただくのが最善ではあるが……。
ルードヴィッヒの唯一の懸念は、そこだった。
最後の説得は、クラリッサ王女自身にさせなければならないこと。
ミーアがそれを最善だと考えたのであれば、問題ないとは思うのだが……。クラリッサ王女に対しては、ミーアに向けるほどの安心感はない。
――いずれにせよ、すぐにサポートに出られるように準備しておく必要があるだろうな。
静かに気合を入れる、帝国の叡智の知恵袋、ルードヴィッヒなのであった。




