第百四十八話 カッ! すべては帝国の叡智の手のひらの上か!?
「あら? 別にいいのでは?」
ごく自然と、あっさりと……ミーアが口にした言葉。それは、ナホルシアの心に衝撃を与えた。
――別にいい……? そんなことはない。そんなこと、あってはならない。
胸の奥、疼く思いがあった。
それは、ナホルシアに植え付けられた罪悪感だった。
『サンクランドの絶対的正義の仕組みを、お前の両親が壊した』という言葉は、ナホルシアの家族への愛着と罪悪感とを強固に結びつけた。
家族が温かなもので、愛おしいものであればあるほどに、ナホルシアの罪悪感は大きくなった。
なぜなら彼女の両親の結婚は、サンクランドの自浄のシステムを濁らせた悪しきもの、その悪しき結びつきから生み出された家族もまた、憎むべきものではないか、と。
蛇は、どこにでもいて、囁くのだ。
時に自分で、時に、オリエンス家と対立する貴族をけしかけて、囁かせるのだ。
『誇り高き初代辺境女伯ナホルシアの名を継ぐ者として、お前は、お前の家族という繋がりを憎まなければならないのではないか?』
そうできぬ自分に、ナホルシアはどうしようもなく罪悪感を抱き続け、その呪いは彼女の骨肉にまで食い込んでいた。
そして、それは自分ではどうすることもできない呪いだった。
なぜなら、彼らの言葉を否定することは“逃げ”になってしまうから。
自覚している罪を、罪でないものにしようとする?
それは、自身の悪行から目を背ける行為。統治者として最もやってはいけないことではないか?
善悪の基準を自分の都合に合わせるという、忌むべき行いではないだろうか?
帝国の叡智は言った。別に構わない。統治者が感情に生きることは許されるのだ、と。
――もしも、そう考えることができていたら……そう信じられるなら、どれだけよかっただろう? あの愛しき日々を、そのまま愛することができるのであれば……。
だが、そんな都合のいい話があるのだろうか? あって良いのだろうか? そんな風に、救われて良いのだろうか?
「正されるべき悪である、と、オリエンス女大公はお思いになりますの?」
ミーアの問いかけは続く。ならば、逆に、あなたはそれを悪だと断じるのか? と。
その口から出たのは、亡き妻を思い続けたティアムーン帝国皇帝の姿。ミーアの父の姿。
その口調から、ナホルシアは感じる。
ミーアにとって両親は……きっと大切なものなのだろう。彼女は恐らく父を、心から大切に思っているのだろう。
だからこそ、彼女は父の行動を擁護する。
大切な家族の名誉を守るため、ミーアは堂々と言うのだ。
「それは罪ではないでしょう?」と。
「それを否定してしまうことは、人と人との繋がりそのものを否定することになりはしないか」と。
そんなミーアの姿は、そのまま、ナホルシア自身にも重なっていく。
あなたは、両親の愛を否定するのか? それを悪だと考えるのか……?
家族との穏やかで幸せだった日々を、悪だと断じるのか?
目を閉じれば、今でも思い出せる日々があった。
掛け値なしに幸せであった幼き日の記憶が、まぶたの裏に甦る。
幸せを感じると同時に、苦み走った罪悪感が滲み出てきた、そんな記憶が……今は素直に楽しい記憶として思い出すことができた。
それは、まるで長く縛られていた呪いから解放された……そんな感覚で。
「オリエンス女大公……私は」
不意に、声が聞こえた。
帝国の叡智のものではない。凛とした、覚悟のこもった声だ。
視線を転じれば、ティオーナ・ルドルフォンが真剣そのものの顔でこちらを見つめていた。
ギュッと手を握りしめ、小さく深呼吸してから、彼女は言った。
「私は……シオン殿下のおそばで、殿下をお支えしたいと願っています。殿下が『人』であり続けられるように、愛をもってお隣に、居たいと思っています」
瞬間、ほわぁっ! っと小さく息をこぼした者がいた!
なんと! イスカーシャだった!
ほんのり赤くなった頬に手を当て、興味津々、ティオーナのほうを見ている。
――ふふふ、案外と、あの子も、恋愛劇が好みのようですね。
意外な一面が少しだけ面白く感じられた。
ロタリアのほうは、どうやら、この成り行きに気付いていたみたいだ。旅の間に色々あったからかもしれないが……実は、ロタリアはきちんと他人の心に目を向けられる子だ。その才は、イスカーシャにはないものだった。
そんな二人の娘たちの様子を冷静に観察して、それから、ティオーナのほうに目をやる。
――このオリエンス女大公を前に、シオン殿下の相手に……将来の王妃になる、と宣言するとは……。大した度胸ですね。
視線を外すことなく、シオンへの想いを語り切ったご令嬢に、胸の中で賛辞を贈る。
そうして、ようやく彼女は自覚する。自身が今まで冷静さを失っていたこと、まるで、なにかに縛られていたかのように、焦らされ、目を曇らされていたこと……。
今、そのなにかから解放されて、いろいろなものが見えるようになったことも……。
――なるほど、確かに、ここはティオーナさんの側が決意を語らねばならぬ場面でしたね。シオン殿下が勝手に他国のご令嬢に手を出した……などとつまらぬ指摘を私から受けないために……。これが双方の同意の上でのことだ、と表明する必要があったと……。しかし、それにしても……。
思わず、といった様子で、ナホルシアは苦笑いを浮かべた。
――奇縁というものかもしれませんね。辺境伯に似た、辺土伯家の令嬢が、シオン殿下と恋仲になろうとは……。それも、我らと同じ……我ら以上の弓上手なご令嬢と……。これも、神の導きというものかしら……。
あるいは……っと、ナホルシアが目を向けたのは、この状況を作り出した帝国の叡智のほうで。
――他国の姫殿下の手のひらの上で踊らされたというのは、シャクだけれど……。
内心で苦笑しつつも、ナホルシアは言った。
「シオン殿下、それに、ティオーナさん……。勇敢なる告白をどうもありがとう。だけれど……残念ながら、それを聞くことは、私の判断に何の影響も及ぼしません」
厳格な口調ではっきりと言ってから、彼女はそっと肩をすくめる。
「なぜなら、一度口にしたことを違えることは、オリエンス大公家の不名誉となることですから……」
そう……二人の想いを確認するまでもなく、すでに、ナホルシアの取る道は決まっていた。
「ゆえに、私は、シオン殿下のなさることに協力いたしましょう」
事前に「もしも負ければ、シオンのすることに反対はしない」と約束していたのだ。
それを違えることなど、もちろんできない。それはサンクランドの正義に反する卑劣な行為。恐らく保守派貴族の者たちも、当然そう考えるだろう。そう考えない者など、正義の国の貴族にいて良いはずがないではないか?
ゆえに……ナホルシアの決定は、次期国王シオンが無理やりに、強引に、自らの想いを押し通した結果ではない。
ナホルシア・ソール・オリエンスが弓術披露会での賭け事などと言う愚行によって、取らざるを得なかった決断なのだ、と。
ナホルシアは、保守派の者たちにも、そう説明するつもりだった。
そして、彼女はそれが許される立場でもあった。
なぜなら、彼女は、王家に匹敵する大公家の当主にして、サンクランド式温室でサンクランドの食料事情を救った貢献者だからだ。
それはすべて、弓術披露会の負けという結果があったからこそ……。事前に賭けがあったからこそ、であった。
――弓術披露会を提案したのは私だし、賭けを提案したのもこちらから。ただ、その弓術披露会へのきっかけとなったのは……。
弓が得意と言ったことに対し、重ねるように我が帝国にも弓上手が、と答えた。そのミーアの言葉こそが、全てのきっかけだったように、ナホルシアには思えてならなかった。
あそこでそう言葉をかければ、ナホルシアがどう考えるか、計算し尽くしたとしか……。
――あれが、開戦の第一矢。見えぬところから放たれた矢であったということか……。
サンクランドの自浄を担うオリエンス家の当主が、事前にした約束事を違えることなどできるはずもなし。極めて当たり前の帰結である。答えはすでに出ている。悩むことすらない。
「しかし……オリエンス家の当主が、このようにシオン殿下の個人的な恋愛を応援するという、私情を優先させてしまった以上は、代わりとなる自浄の仕組みが必要となりましょう。シオン殿下にその腹案があるのであれば、私としてはそれを全面的に支持いたしましょう」
いっそ清々しささえ覚えながら、ナホルシアは言うのだった。




