第百三十四話 まぁ、帝国の叡智と比べちゃうと、ね……
ところ変わって、ルードヴィッヒとキースウッドは、ルスティラの館へと通されていた。
幸いなことにと言うべきか。ルスティラは、きちんと二人のことを記憶しており、比較的スムーズに面会することができた。
「突然、お訪ねしてしまい申し訳ありません。礼を失した行いを、心より謝罪します」
「ふふふ、別に構わないわ。老人は、暇だから」
などと悪戯っぽくウインクするルスティラに、感謝の意味で深々と頭を下げた後、ルードヴィッヒは本題を切り出した。
「実は、オリエンス女大公のご提案で、帝国とサンクランドの親睦を図る弓術披露会を開くことになったのですが……」
っと、素早く経緯を話す。と、ルスティラは、ああ、と小さく声を漏らした。
「なるほど、ナホルシアが……そうでしたか」
それから、彼女は考え込むようにして紅茶を口にする。苦味が強かったのか、一度、カップを置き、テーブルの上のジャムを手に取る。スプーンでジャムを山盛りすくい、紅茶の中にドンボ! っと落として溶かし込んでいく!
実に……甘ったるそうな紅茶だ。
それを眺めつつ、ルードヴィッヒは納得する。
――知者は、考えごとをする時に甘いものを口にしたがるということか。思えば、ミーア姫殿下もそうだったし、師匠もハチミツを好んでいたな……。
森の賢者の場合、ハチミツは嗜好品というよりも、貴重な栄養源だったわけで……微妙にミーアやルスティラのスイーツとは趣を異にするものではあったのだが……まぁ、それはさておき。
「いずれ王位を継がれるシオン殿下が心に決めたのであれば、我らサンクランド貴族に抗う術はなし。ゆえに、弓術試合の勝ち負けでこちらの意を通そうと……。それも、王権に対する働きかけではなく、帝国のミーア姫殿下に対する働きかけ。ナホルシアも相当に追い詰められたのでしょうね」
ふぅ、と小さくため息を吐いてから、ルスティラはキースウッドに目を向けた。
「シオン殿下は、我らオリエンス家を遠ざけようというご意思はないのでしょう?」
「私の知る限りは、ですが。もっとも、王の諮問機関が作られれば、オリエンス大公家の影響力が落ちることは確かだと思いますが……」
「王の諮問機関にオリエンス家の者を送り込めば解決することね。議長なり、名誉職をもらえれば、周囲の納得も得られるでしょうに……」
軽く唇に触れつつ、ルスティラは続ける。
「サンクランドがずっと守ってきた制度と形を変えたくはないのでしょうね。あの子は、特に、私と夫の結婚によって、サンクランドの正義が損なわれた、とでも考えているのでしょうし」
静かにつぶやいてから、ルスティラはルードヴィッヒのほうに視線を向ける。
「それで、ミーア姫殿下は、この件を解決しようとされている、と……」
深々と頷き、ルードヴィッヒは口を開いた。
「はい。ミーアさまには、すでにルスティラさまのお考え、ご危惧についてもお伝えしていますので……」
「それを踏まえたうえで、今この時に私のことをお呼びである、と……」
「そのように、ご下命を受けました。恐らくは、この機に、サンクランドの抱えている危険性を含めて、全てを解決なさろうとしているのではないかと……」
確信を込めた口調でルードヴィッヒは言う。対して、ルスティラは未だに懐疑的な態度を崩さない。
「例の蛇のことも、ナホルシアに話すつもりですか?」
その問いかけを吟味するように、ルードヴィッヒは黙り込んだ。即答しかねる、というのが、本音のところだった。それを見透かすように、ルスティラは続ける。
「以前に聞いた混沌の蛇と、その教典『地を這うモノの書』について、あれからずっと、調べ、考えておりましたの。ふふふ、老人は時間を持て余すものだから……」
上品な笑みを浮かべて、ルスティラは続ける。
「いくつかの歴史の事象、国の動きには、確かにその蛇の思想が関係しているように見受けられた。そして、考えれば考えるほどに、『地を這うモノの書』は危険なものだと思ったわ。よくよく情報を明かす人を選別しなければ、世に大量の蛇を生み出すことになるでしょう」
『地を這うモノの書』が一読しただけでは、ただの『知識の書』に過ぎないというのが、とても厄介なところだった。知識など使うもの次第。多くの人はそう思っているし、ルードヴィッヒも基本的にはそう考えている。
されど、誰もが平静に、知識を支配できるわけではない。
自分が知ってしまった技術に踊らされ、支配され、その身に破滅を導き入れることだとて、世の中には往々にあるのだ。
――平常な人間が剣を渡されたとて、どうということはない。それをただ使わず、己が腰に佩いておけばいいだけだ。しかし、恨みを持つ者、絶望した者、悲しみに心を奪われた者が剣を渡されれば、悲劇を招く要因になり得る。あるいは、心に傷を持っていなくとも、誘惑に負ける者もいるかもしれない。剣を持つという優位性に酔い、誰かを脅し、殺すかもしれない。
それは、武器でも、富でも、権力でも変わることはない。
なぜ、そこから知識だけが除外されることがあり得ようか。
すべての人が、知識と正常に向き合い、使いこなせはしないのだ。
知識は無害などではない。知ってしまえば、変化があるし、知る前に戻ることもできないのだ。
そのうえで、ナホルシア・ソール・オリエンスに蛇の存在を明かすことが適切なことか……。
ルスティラは、そう問うているのだ。
――この方は、ご自分のお考えを、娘に明かすことを選ばれなかった。それをしても意味がないのだ、と言っておられた。蛇のことをオリエンス女大公に明かすということにも、きっと不安をお感じなのだろう。
実際のところ、どうなのだろう、とルードヴィッヒは考える。
オリエンス女大公という重責を担う彼女は、恐らく、その能力は持っているが、精神的な安定性という部分では、ミーアには及ばないように見える。
――いや、ミーアさまと比べてしまえば、どのような統治者も未熟ということになってしまうか。
ルードヴィッヒは苦笑いを浮かべる。
常に泰然自若とし、どのような困難に対しても慌てず騒がず、溢れる知恵と善良なる心で解決していくミーアと比べられては、どんな者でも見劣りしてしまうだろう……などと考えつつ、眼鏡を押し上げる。
ともあれ、問題はナホルシアに『地を這うモノの書』のことを教えても問題ないか、否かだが……。
そこまで考えたところで、ルードヴィッヒは、ふっと笑った。
――考えるまでもないことだったな。
ルスティラのほうを真っ直ぐに見つめて、ルードヴィッヒは答える。
「もしも、ミーアさまがそうご判断なさるのであれば、そのように状況を整えられることでしょう。あの方は未来を読み切り、最善の一手を打たれる方ですから」
純然たる忠義により、周囲の期待値を惜しげもなく上げまくってしまう、忠臣ルードヴィッヒなのであった。




