第百十九話 ……イスカーシャのほうだった
ナホルシアの胸には、得体の知れない焦燥感があった。
それは、起きた瞬間に忘れてしまった、ただの夢に由来するものと笑い飛ばしていたのだが……。
――もっと真剣に向き合っておくべきだった。やはり、直感というのは馬鹿にできないものね。きちんと事前に備えておかなければならなかった!
心の中、己が迂闊さを呪う。
シオンの考えは明白だった。
帝国貴族、ティオーナ・ルドルフォンとの婚姻。それによりミーア二号小麦を積極的にサンクランド内に流通させていく。その結果、サンクランド式温室の影響力を減じるとのメッセージだ。
――オリエンス家の影響力を下げ、王の諮問機関を立ち上げる。積極的に多くの者たちの意見を取り入れ、それにより、サンクランドの国王は絶対的な正義の王ではなくなる。
初代サンクランド国王と初代辺境女伯ナホルシアとが作り出した、唯一絶対の正義の国、サンクランドが変容してしまう。
それも自分の愛した父と母、大切な家族のせいで……。
だが、今のナホルシアにはそれをも凌駕する、正体不明の危機感があった。
『シオン坊やに伝えるべきことがある時に、耳を傾けてもらえなくなるかもしれない』
不意に浮かんだ想いに、ナホルシアは戸惑う。
将来、シオンに、どうしても伝えなくてはならないことができるかもしれない……彼を、どうしても止めなければならなくなることがあるかもしれない……。
それが出来なかったから後悔する日が、くる……。そんな確信が胸の内にあった。
思いのほか強い気持ちを持て余し、ナホルシアは小さく息を吐く。
――でも、もしもシオン殿下がお決めになっているのなら……止めようがない。
サンクランド貴族としては、どうしても覆せないものがあった。それは、王の意向だ。
――正義の国王の意向は、尊重されるべきだ。もしも殿下が国王におなりになって、ティオーナ嬢との結婚を決めたなら、それを否定することはできない。
国王に重大な誤りがない限り、最終的にナホルシアにできることはない。王の権威を絶対のものとして捉える保守派の、それも中核たるオリエンス女大公であれば、なおのこと、だ。
――シオン殿下が、一時の気の迷いでなく、しっかりとした政治的判断で、オリエンス家の影響力を下げることを正しいとお考えならば、その判断を曲げることは、きっとなさらない。
ゆえに……ゆえにこそ、ナホルシアに取れる手は、もうほとんど残されてはいなかった。
ただ一つを除いて。
すなわち、シオンに対する働きかけではなく、その相手のほうに対する働きかけ……。
――ティオーナ・ルドルフォン、並びにその裏にいる黒幕、帝国の叡智をなんとかする以外にない。
心の中で覚悟を決めつつ、朗らかな笑みを浮かべて、ナホルシアは言った。
「せっかくですし、三本勝負をするというのはいかがでしょうか?」
「さっ、三本勝負、ですの? それはいったい……」
突然のことに、ミーアは眉をひそめる。その脳内では、警鐘が鳴っていた。
まるで大海原に、ぽやぁっと浮かんでいる時、ふと気付くと、向こうのほうから灰色の雲がもくもくもくぅ! っと立ち上がってきたような……。
静かに、着実に、嵐のようなナニカ危険な物が近づいているという……そんな予感がするのだ。
――これは、決して気を抜くべきではありませんわ!
紅茶に口をつけ、脳内に甘いジャムを送り込みつつ、ミーアは続きを促した。
「実は、我がオリエンス家では一年に一度、他家の者たちと合同で弓術試合を開いているのです。それぞれに三名の代表を立てて、三つの競技で腕を披露しあうのですが。余興で、それをしてみるのはいかがかと思いまして」
「なるほど、それは面白そうですわ。普通に的を狙うだけでは、退屈するかもしれませんし……」
なぁんて興味を惹かれるミーアであったが……。
――しかし、三人となると、ティオーナさんとリオラさんに加えて、もう一人、射手を立てなければなりませんわね。まぁ、ディオンさんとかにお任せしてしまうのがよろしいかしら……。
ちょうど近くにやってきたティオーナとリオラに話してみる。
「三本勝負……。はい。大丈夫です。帝国の栄光を現すために、微力を尽くします」
「尽くすです!」
やたらと意気込んでいるティオーナと、主に合わせ、むんっと拳を握るリオラ。
「ええ。信じておりますわよ、ティオーナさん。帝国の威信をかけて、最高の弓術を披露していただきたいですわ」
などと、気軽に笑うミーア。
――この調子なら、まぁ、大丈夫かしら……。
「帝国の威信、ですか……」
ポツリとつぶやき声。そちらに目を向ければ、ナホルシアが、ニヤリと笑みを浮かべていた。
――あら、なにかまずいことを……?
「そうだ。せっかく試合の形をするのであれば、なにか賭けをするのはいかがでしょう?」
唐突に、ナホルシアが言いだした。
「ほう、賭け……ですの? それは……何を賭けるかによりますわね」
探るように見つめれば、ナホルシアは笑みを消し……チラリとティオーナのほうを見て、
「こちらが勝ったら、そちらのティオーナ嬢とシオン殿下が婚儀を結ばぬよう、ミーア姫殿下のほうで働きかけていただく。そちらが勝ったら、オリエンス大公家はシオン殿下のなさることを全面的に支持する……それでいかがでしょうか?」
あまりにも直接的な要求に、ミーアは思わず目を剥いた。
――なっ、何を言っておりますの。そのような大切なことを弓の三本勝負で決めようなどとわたくしが認めるはずが……あっ!
慌ててナホルシアのほうに目を向ければ、彼女は静かな笑みを浮かべていた。それを見たミーアは遅まきながら気付いてしまう。
――ここで賭けを断ればどうなるか……。くっ! 迂闊でしたわ。
軽口であったとはいえ……ティオーナには、帝国の威信を背負ってもらっているのだ。それは、それだけティオーナを信用しているという証だ。
それを受けて、ティオーナはとても嬉しそうにしていたし、やる気も高まっていた。
だが、もし、ここで引いたらどうなるか?
先ほどの言葉が、口から出まかせの、軽いものになりはしないか?
国家の威信などと言いつつも、本当に大切なものを賭けられないということは、結局のところ信用できないからではないか、と……。
ナホルシアは、そのような論理をぶつけてきているのだ。
「いや、ナホルシアさま、それは!」
っと、立ち上がるシオンに、ナホルシアは首を振る。
「シオン坊や……、殿下、口出しは無用に願いたいですね」
それから、上目遣いで睨み、
「これは女の戦いです。我が娘、ロタリアも、きちんとけじめをつけないと納得がいかないでしょうし。そうですね、ロタリア」
「もちろんです、お母さま!」
なぜだろう……ナホルシアの問いかけに、やたらと意気込んで答えたのはロタリア……ではなく、姉のイスカーシャのほうだった。




