第百五話 ぼふぼふ
「帝国皇女ミーア・ルーナ・ティアムーン……。なかなか、底が見えない」
晩餐会の後、イスカーシャは、一人で考え込んでいた。
「……気になるのは、お母さまの様子がおかしかったこと、か……」
誇り高きオリエンス大公家の当主、女大公ナホルシア。初代に決して劣らぬ才覚をもって、領地に繁栄をもたらす母。尊敬してやまない女大公が平静ではなかったことが、イスカーシャは気になっていた。
その疑問を解消すべく、母の部屋を訪ねる。
「失礼いたします、お母さま。少しよろしいでしょうか?」
ノックしつつ部屋に入る。っと、ナホルシアはイスカーシャの顔を見て首を傾げた。
「ああ、カーシャ……どうかして?」
「ええ。晩餐会で気になることがありまして……。先ほど、少しご様子がおかしかったのではありませんか……?」
「ああ、あなたにもわかってしまったのね……」
ナホルシアは、恥じ入るように苦笑いを浮かべた。
「実は、晩餐会の前にシオン殿下が会いに来たの。ロタリアとの縁談話を断りたい、とね。それで、その思惑が気になってしまって……」
「はっ、ぇ? え、縁談を、こ、断る……?」
震える声で、思わずつぶやく。
母の言うとおり、シオンの意図がまったくわからなかった。
――我がオリエンス家との縁談を断ったということは、それに匹敵する縁談を裏で進めていたということか……。とすると、ヴェールガ公国の、いずれかの司教の娘か……。あるいは、エシャール王子と同様に、ティアムーン帝国の星持ち公爵家からか……。騎馬王国の族長の娘の可能性もある?
冷静に、冷静に検討しつつも、その心の内にかすかな怒りが湧き上がる。
「ロタリアにこのことは?」
恐る恐る尋ねれば、母は難しい顔をしていた。
「今はまだ。断られた事情がよくわからないから。ロタリアに理由があるのかもしれないけれど、でも……」
「ミーア姫殿下、ですか?」
ナホルシアは難しい顔で頷く。
「それと、同行しているご令嬢たちも気になると言えば気になるわ」
「家柄的に考えれば、イエロームーン公爵令嬢でしょうか?」
サンクランド王子と釣り合いが取れる相手と言えば、帝国の星持ち公爵令嬢ぐらいだろうが……。
「その可能性もあるでしょうけれど……どちらかというと、もう一人のご令嬢のほうが気になったかしら……?」
――もう一人……というと、イエロームーン公爵令嬢とよく話をしていたあのミーアベルという少女でもないかな。雰囲気的にあの子じゃないだろう……とすると……。
「ティオーナ・ルドルフォン嬢のほうよ」
「辺土伯令嬢とかいう、帝国辺境部の貴族令嬢でしたか……ということは、もしや、そのために弓術対決の提案を? 彼女の人となりを見るために?」
「せっかく、弓が得意と言っていたから、なにかのきっかけになるかと思っただけよ。そこまで深い理由はないけれど……。ともかく、シオン王子とミーア姫殿下の思惑を探る必要があるでしょう」
その後、とりあえず、これからのことを相談した後、イスカーシャは自室に戻ってきた。
後ろ手にドアをきっちり閉めた後、彼女はキリリッとした顔のまま、ベッドに行き……、そこに横たわっていたものを……思い切りぶん殴った!
それは、ぐんにょりした……でっかい抱き枕だった!
ぼふ、ぼふっと……ふっかふかの枕に拳を叩き込む。そのまま、抱き枕を抱え込み、ぐるん、ぐるん、ぐるんっと回転! ぶーんっと壁に向かって投げつける!
ふーふ! っとわずかに切れた息と乱れた髪を整えて……。キリリッとした顔を作ると、そのまま抱き枕をベッドの上に戻す。それから、品のある所作でドレスを脱いで部屋着に着替える。
「……むぐぐ……腹が立つ」
着替え終えた後、ベッドにダイブ。しょんぼり、ぐんにょりした抱き枕をぎゅぎゅっと力任せに抱きしめ……、
「……むかつく」
ぽつり、と、さらに一言。
彼女は腹が立っていた!
非常に、非常に……腹が立っていた!!
理由はとても簡単で――ロタリアの縁談が上手くいかなかったからだ。
そうなのだ、なにを隠そうこの姉妹……仲良しだったのだ。とても、とても……仲良しだったのだ!!
表には出さないが、イスカーシャは常々、可愛い妹のことを心配していたのだ。
生まれた時から、彼女は大体のことが上手くこなせた。たぶん、母の才覚の多くを継いでいるのだろう、とイスカーシャは自覚している。
それに比べて、ロタリアは若干劣る。イスカーシャと同じことをするには、少々時間がかかるのだ。
時間がかかっても、努力して、同じところまで登ってくるのだから、むしろ、そっちのほうがすごいとイスカーシャは思っていたが、ともあれ、領主の仕事には即断が必要なことがある。
能力が足りないから、民が死にました、なんてことがあってはならないから、習得に時間がかかるのはやっぱり問題だろう。
それに、厳しい決断も、恐らくは優しい妹の心を傷つける。
だから、自分がオリエンス家の当主を継ぐのは当然のこと、正しいこととイスカーシャは思っていた。
でも、心苦しくもあったのだ。偉大なる母の判断は正しいと思っているけど、選ばれなかったロタリアを可哀想に思ったのだ。
別に、女大公になることだけが幸せだとも思わないが、“選ばれなかった”という事実は、それだけで気落ちする理由になる。
だから、ロタリアをサンクランド王妃に、という話を聞いて嬉しかったのだ。
サンクランドの王妃ならば、女大公の立場に並ぶ。これならば、ロタリアもそこまで傷つかないのではないだろうか。
さすがは、お母さまだなぁ! と心から感心していたというのに……。
「シオンのやつ……」
やってくれたなぁ、あの野郎……っと抱き枕をぼふぼふやる。ぼふぼふ、ぼふぼふやる!
……ちなみに、まぁ、言うまでもないことではあるが、イスカーシャはシオンのことを、特になんとも思っていなかった。妹、ロタリアと似たようなものだ。
近すぎて恋愛の対象にはならないのだ。
そもそも、イスカーシャの好みは、デキる男ではない。どちらかと言うと、柔らかな雰囲気で自分をすべて包み込んでくれるような人だ。自分の父、あるいは祖父のような人だ。
ちなみに、これはどうでもいいことながら、イスカーシャが好んでこっそり読んでいる恋愛小説も、その手の年の差ものが多い……まぁ、本当にどうでもいいことではあるのだが。
ということで、ともかく、遠慮なくシオンに怒りをぶつけることができるのだ!
「ロタリアを王妃にするのを断るなんて……シオンのやつ、生意気な……」
ぎゅぎゅむっと抱き枕を締め上げつつ、
「断った理由次第では、絶対に許さない……絶対に……」
ぎりりっと歯ぎしりするイスカーシャだった。




