第百一話 唯一、絶対の……
オリエンス領の領都サリーデルのほど近く。小さな村に、その館はひっそりと建っていた。
領主であるオリエンス家の別荘、歴代のオリエンス家当主の終の住処であるその館には、ナホルシアの母、ルスティラ・ソール・オリエンスが住んでいた。
夫を失って以来、静かに隠居する母にナホルシアは定期的に会いに行っていた。
年老いた愛馬、明陽を厩舎に預ける。
「少し待っていなさい」
そう声をかければ、愛馬は優しい目で見つめてきた。
中庭に行くと、柔らかな冬の日差しを受けて、母が、のんびりとお茶を楽しんでいた。
椅子に腰かけ、本に目を落としていた母が、ふと視線を上げる。
「あら、ナホルシア、来たのね」
娘の姿を見つけると、ルスティラは静かに立ち上がる。
従者の者たちにお茶の替えを用意させ、それから、ナホルシアのところまでゆっくりと歩み寄ってくる。
穏やかな笑みを浮かべる母を見て、ナホルシアは改めて思う。
――この人が、女大公を務めていれば、どんな判断をくだしていたのか……?
本来であれば、オリエンス家の当主、数世代ぶりの辺境女伯を務めるはずだった母……。オリエンスの姫の中の姫と言われ、幼き日より当主となることを嘱望されていた才女。
今ではその片鱗もない穏やかな顔をする老女を眺めながら、ナホルシアはつい考えてしまう。
恐らくは大公であった父よりも、当主に相応しいはずであった人なのに……と。
「どうかしたのですか?」
気付けば、母がこちらを見つめていた。ナホルシアを心配するような、気遣うような気配。それに静かに首を振って答える。
「いえ、別に……」
「そう。今日はゆっくりして行けるのかしら? あなたが来ると聞いて、メイド長がパイを焼いてくれたのよ。一緒に食べましょう」
見慣れた母の顔で言うルスティラ。自分や弟たちを、愛情深く育ててくれた優しい母の顔。怜悧な統治者とは程遠い、されど、幸せに満ちた母の顔だ。
「それで、今日はどうかしたの?」
椅子に座り、紅茶を注ぎながら、母が尋ねてくる。
「なにか用があったのでしょう?」
「なぜ、そうお思いですか?」
固い声、オリエンス家当主から、先代の大公夫人に向けた声で問いかける。だけど……。
「あら、だって、あなたが私のお茶に付き合ってくれるのは、ずいぶんと久しぶりのことだったから」
帰ってくるのは子を気遣う母の声。家族へと向ける柔らかな声だ。
「まぁ、せっかく忙しい中で来てくれたんだし、パイを食べ終わるまでは、ゆっくりお話ししましょう。カーシャとロタリアは? 元気にしているかしら? セドリック卿もお変わりなく?」
テーブルの上に置かれたパイを自ら切り分けつつ、問われるのは家族のことだ。
孫娘の、婿の、息災を問う言葉だった。
なにも変わりませんよ、といつもの癖で答えそうになり、ナホルシアは、わずかに黙る。そういえば、今日は、その家族のことで話しをしに来たんだったっけ……と。
「実は、ロタリアを、サンクランド王家に嫁がせようと思っています。シオン坊や……シオン王子殿下の相手に、と」
それを聞いて、ルスティラはまぁ、と小さくつぶやいた。
「では、次期サンクランド王妃にロタリアを推すと……?」
「どう思われますか?」
母は先代の大公夫人だ。隠居しているとはいえ、その発言には影響力がある。確認しないわけにはいかないが……。
「どうもなにも。オリエンス家当主の決定なら、私から言うことはなにもないわよ」
母はパイに目を落としたまま答える。どうも、その焼き加減のほうが気になるようだ。
「では、反対はしないと?」
「逆に、反対して欲しいのかしら?」
ルスティラは、フォークでパイをサクリっと崩しながら……。
「シオン殿下は、才能に溢れる方だと聞いているわ。公明正大で文武両道。パーティーで何度かお見掛けしたけど、親切で気遣いもできる好青年だった」
パイはリンゴを使ったものだった。ルスティラは、シロップ漬けにしたリンゴをフォークですくいあげて、
「それに、顔も言うことなしでしょう?」
ウインクしつつ、パクリと食べる。
「あのような方のもとに嫁げば、きっとロタリアも幸せになれるのではないかしら? 反対などしませんよ」
その答えは、ナホルシアの求めるものではなかった。
孫を気遣う祖母の顔をするルスティラに、わずかに苛立ちながらナホルシアは言葉を続けようとするが……。
「ふふふ、うちのメイドの焼くパイは絶品ね。ほら、あなたも食べたら?」
「先代の大公夫人として、なにか言うことはないのですか? 母上」
母の言葉を無視して、ナホルシアは問う。けれど……。
「ロタリアの祖母として、そして、あなたの母として、私は家族みなの幸せを祈っていますよ」
母として、祖母として……。はぐらかすような言葉に、わずかばかりの苛立ちを感じる。
「参考までにお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「あら? なにかしら?」
「母上の結婚の時には、どうでしたか?」
「あら、私の……?」
「はい。父上……先代のオリエンス大公の婿入りが決まった時のこと。母上は、なぜそれを受け入れたのでしょうか?」
オリエンス辺境伯に与えられた務めを知りながら、自身の婚姻がどのような影響力を持つのか、しっかりと認識しながら……なぜ……と。
「幸せになれると思ったからですよ、ナホルシア」
母の答えは変わることはない。
自身の幸せのため。家族の幸せのため。サンクランドの自浄作用を薄れさせてもなお、彼女は自らの幸せを選んだ。
事実、オリエンス家は幸せな家庭だった。
ナホルシアにとって、両親は良い人たちだった。精一杯の愛を注いでくれた。
だから、ナホルシアは母を愛しているし、父を愛していた。
弟たちを慈しみ、弟たちも姉に敬愛を向けた。
「ところで、まだ、あの馬に乗っているの?」
ふいに投げかけられた言葉に、ナホルシアは一瞬、なんのことかと首を傾げるも……。
「ええ。父上からいただいた大切な馬ですから」
その答えは揺らぐことはない。
ナホルシアは、先代大公の存在を認められない。
当主の資質の欠如はもちろんのこと、大公となった経緯も、王家との血縁を強め、オリエンス家の役割に疑いの余地を生じさせたことも、断じて認めることはできなかった。
だが、その娘として、心から父を敬愛してもいた。
幼き日より、一つの葛藤がナホルシアを縛っていた。
母ルスティラが選択したオリエンス家という家庭は、あまりにも幸せに過ぎて……それがサンクランドの仕組みを殺す毒になり得てしまうことが、ナホルシアには我慢ならなかった。
「そう。でも、あの馬ももう年でしょう? 当主に相応しい馬に乗り換えてもあの人は怒らないと思うけど……」
「何も問題ありません。オリエンス家当主に相応しく働いてくれていますから」
言いながらも、自らの内に執着を感じる。母の言うとおり、馬を乗り換えても問題ないはずなのに……。
それは、彼女の原点だった。
幼き日、名も知らぬ貴族より言われた言葉。
「お前の母は知っていて、サンクランドの絶対の正義を陰らせた。世界に唯一の正義を濁らせたのだ。そして、お前の無能な父は、蒙昧にもなにも知らずに、それに加担した。お前の家族が、幸福が、世界にただ一つの正義の国の、その正義を担保する仕組みを台無しにしたのだ」
あの日の批難に抗うために、幸福だった思い出を汚されぬために、彼女は生きている。
サンクランドが決して、その唯一の正義を失わぬように。
自身の家族が、その原因とならぬように。




