第九十三話 その星に手を伸ばして……
「あの日、君が、俺に言ってくれたこと……。俺に相手ができるまで……と、君は言ったね」
……改めて言われて、思わず頬が熱くなる。まったく、何を言っていたのだろう、過去の自分は……。
「あ、あの、シオン王子、あの時は、その……返す返すも……」
慌てて言おうとするが、シオンは苦笑いを浮かべて首を振った。
「いや、何も言わないでくれ……。俺は、確かに君に救われたんだ。だけど知らず知らずの内に、甘えてもいたと思う……」
「甘えて、なんていなかったと思いますけど……」
ティオーナの否定にも、シオンは苦い顔だった。
「もちろん、一時的に君と恋をして、それで気を紛らわそうなんてことは思わなかったよ。ミーアにフラれた傷を癒すために、ミーアの友人である君と付き合うなんて、それは、君にとても失礼なことだし、それに……」
っと、言葉を続けそうになって、シオンは首を振った。
「いや、違うな。そうじゃない。怖くて言えなかっただけだ」
年相応の、否、それよりも少しだけ幼い、少年のような恥じらいを浮かべて、シオンが言った。
「本当は、あの日からずっと、君に惹かれているのを感じていたんだ……。もっと、早く言えばよかったのに、それができなかった。その結果、君とは中途半端に親しく付き合うようになって……、それが、心地よかったから……このまま、この関係が続けばいいと、変えたくないと思うようになった」
ティオーナは、目を見開く。
自分と同じだった。
シオンもまた、今の関係を大切に思っていてくれたことが、嬉しかった。
「だが……それは許されない。俺は、サンクランドの王子だから」
わずかばかり苦しげな顔で、シオンが言った。
「改めて、考えさせられた。次期サンクランド国王として、自分の縁談をどう考えるのか……。ロタリアと結婚して、オリエンス大公家との仲を深める。それは、サンクランド国王として、極めて妥当な考え方だ。だから、そうすべきじゃないかとも思ったんだ……でも」
静かに、シオンはティオーナのほうを見つめて……。
「……民と共に生きることを、俺は君の姿に見たんだ。王と民、領主と民ではなく……民の中に、同じ人として生きる姿を……」
なにかを思い出すかのように、自身の感情を噛みしめるかのように……シオンは言った。
「それが、俺にはとても美しく……魅力的に見えたんだ。そして、ずっと……隣に居たいと、思ったんだ」
その視線がこちらを向く。頬が熱くなる。少しだけ息苦しくなって、ティオーナはそっと胸を押さえた。
「俺は、サンクランドの王となる」
シオンは言った。覚悟を決めるかのような、断固とした声で。
「だから、俺の隣に立つ人は、必然、サンクランドの王妃になる人、ということになる。重荷を負わせることになってしまう。それでも……」
一度息を吸って、吐いてから……意を決するように、シオンは言った。
「ティオーナ・ルドルフォン、貴女に……俺と共に重責を担ってもらいたい。俺の隣で、俺が、間違えないように、いつも支えていてほしい。この手を、放さないでいてほしいんだ。俺が、人であれるように」
そうして、シオンはそっと手を差しだした。その手をジッと見つめてから……ティオーナは、そっと口を開いた。
「……ずっと、謝りたいことが、あったんです」
「謝りたいこと……?」
怪訝そうな顔をするシオンに、ティオーナは頷いた。
「先日、シオン王子から尋ねられた時、私は、本心を偽りました」
耐え切れず、ティオーナは視線を外す。
「シオン王子に縁談があるって聞いた時、それが、サンクランドにとっても、シオン王子のためにも良いものだと、思いました。絶対にそう……考えるまでもなく、そうだって、今でも思ってます。だけど……」
シオンの目をしっかりと見つめて、ティオーナは言った。
「私は……、あなたが他の人と結ばれることが……嫌でした。私は……私は」
彼が、正義の王子さまだから好きになったのではない。
彼が、完璧な人だったから、惹かれたのではない。
ただ、自身に課された重荷を下ろすことのできない不器用さが、自身の恋心を懸けた勝負の最中でさえ、無責任に我を通すことのできないその姿が、この上なく魅力的に思えた。
不安そうに差し出された手が見えた。
その手は、いつかのダンスパーティーでティオーナに差し出された手だ。
セントノエルでの特別な日の記憶を、嫌な気持ちで終わらせないように……と、自分を気遣ってくれた、優しい人の手だった。
その手を取ることが、彼の隣に立つことが、どれほど重たいことなのか……。
それを理解してなお、ティオーナは手を伸ばす。
空気が読めぬ娘。人々から望まれた理想的な結婚に水を注す、異国の辺境貴族、と。そう批難されることも覚悟の上で……ティオーナは一歩を踏み出す。
まるで、あの空に輝く星に、手を伸ばすかのような心持ちで。
ティオーナは、シオンの手を取った。
「私は、あなたのことが好きです。シオン王子。重荷を降ろせぬあなたの、その重責を少しでも共に担えるなら、それで少しでも、あなたが笑えるならば……私はそれを担います」
真っ直ぐに、シオンの目を見つめて……。
「シオン王子、私は、あなたの隣に、生涯、立ち続けたいと、心から望みます」
シオンは、詰めていた息を、深く、深く吐き出して……。それから、安堵の笑みを浮かべて……。
「ありがとう……ティオーナ。俺は……王として国を愛し、人として君を愛する。この手を放すことは、俺の命が尽きるまでないと誓おう」
それから、やや不器用な仕草で、彼はティオーナを抱きしめた。
「おお、ティオーナさま……やった、です」
「やれやれ……シオン殿下。やっとですか……」
そんなつぶやきが、どこかで聞こえたが……幸いにも、二人は気付かないのであった。




