第二部 プロローグ その誇り高き名を抱いて!
荒れ果てた廃墟の町を一人の少女が走っていた。
かつて≪美しき月の町≫と呼ばれた帝都も、度重なる戦乱の前に焼け落ち、瓦礫で舗装された無法地帯となっていた。道には骸が打ち捨てられ、それを片付ける者もいない。
かつての貧民街、新月地区よりもひどい有様だった。
だから……年端もいかぬ少女が、武装した男たちに追いかけられていても、助けようという物好きは現れなかった。
息も絶え絶えに、少女は走る。
恐らく長い間洗っていないであろう、くすんだ白金色の髪は汗に濡れ、少女の頬にはり付いていた。泥に汚れた頬は青白く血色が悪い。
か細くやせ細った肩が、激しく弾んだ息に合わせて激しく上下していた。
けれど、少女は足を止めなかった。何度も何度も後ろを振り返りながら、追跡者から逃れるべく、懸命に足を動かし続ける。
もう動けないというところまで走って、走って……、やがて少女は転んだ。
「あっ……」
その拍子に、少女が持っていたものが道に投げ出された。
それは古びた本だった。焚書にされ、今やこの世界にはほとんど存在しない、その本の名は「ミーア皇女伝」
少女の親代わりだった人の書いた本だった。
「……エリス母さま」
今は亡き人の、優しい笑顔を思い出す。
「いい? ベル。その本にはね、『真実』が書かれている。あなたは、本当のことを知らなくてはならないわ。あなたのお祖母様がどんな方であったか……。いくら世界が本当のことを偽りで覆い隠そうとしても、あなただけは、知らなくてはならないの……」
そう言って”ベル”という愛称で呼ばれる少女の頭を撫でてくれた。
「アンヌ母さま」
精一杯の愛情を注ぎ、育ててくれた人の、温もりを思い出す。
「お逃げなさい。誇り高き、その名を胸に抱いて。あなたは、あの方の血を引く者、こんな場所で死んではダメよ」
自らの体を血に染め上げつつも、ベルを抱きしめて、優しく微笑んだ。
もう、見られない愛しい人の顔を思い出す。
優しい人たちの、その顔を思い出す。
「ティオーナおばさま、クロエおばさま、ルードヴィッヒ先生、ディオンおじさま……」
みんなみんな死んでしまった。
彼女に優しくしてくれた人は、彼女を守るために……死んでしまった。
ある者は口惜しげに、ある者は苦笑を浮かべて、同じことをつぶやきながら……。
あの方がご存命ならば……、こんなことにはならなかったのに……と。
帝国の叡智が、慈愛に満ちた聖女がいてくれたならば、きっと帝国は……世界は……、こんな酷いことにならなかったのに、と。
皆が口々に称える“その人”のことを、ベルは覚えていなかった。
ただ、うっすらと優しい人だったという印象だけが、残っていた。
だから、彼女が持つ“その人”の知識は、すべて本から得たものだった。
”その人”はまさに、叡智と呼ばれるのに相応しい人だった。慈悲深い聖女で、救国の皇女だった。
ある時から“その人”のことも帝室のことも口に出してはいけないことになってしまったけれど、それでも、こっそり“その人”のことを話す人は、必ずと言っていいほど笑顔だった。
だから……、ベルは誇らしかったのだ。
その人の血が自分の中にも流れていると考えるだけで、胸に暖かな光が灯るような気がした。
「ようやく諦めたか、ガキ」
温かな思い出に浸っていたベルを、荒々しい声が現実へと引き戻した。
視線を転じると、粗末な革鎧に身を包んだ男が、暴力的な笑みを浮かべていた。
「悪いな。俺たちも気は進まねぇんだが、お前の首にかかってる金貨が魅力でなぁ」
その隣の男が、腰に佩いた剣を抜く。
「大人しくついてきてもらおうか。ああ、言うまでもないことだが逃げたら殺すぜ? 生死は問わずってことらしいからな。絞首台か俺様の剣か、好みの方を選ぶといいさ」
「しっかし、こう薄汚れてたら人相書きと同じガキかわかんねぇな。おい、ガキ、お前の名前はなんだ? 正直に言えよ?」
ねっとりと絡みついてくる殺気……。ベルは恐怖に身を震わせた。
――怖い……。怖いよ、母さま……。
胸に抱いた本をギュッと抱きしめる。
――助けて……お祖母さま……。
その瞬間……、大切な人達の声が聞こえた気がした。
「その誇り高き名前を抱いて……行きなさい。そして、どうか生き残って……伝えて。あの方のことを……さまのことを……どうか……」
彼女は唐突に思い出した。
自分が、何者に連なるものかということを……。
己が内に流れる血が、人々の希望を体現した者から受け継がれたものであるということを。
雷にも似た感情の高ぶりが、ベルを襲った。
か細い体のまとう震えは、その種類を変えた。怯えではなく、闘志へと。
その激情に促されるように彼女は静かに立ち上がり、男たちを見据える。
その瞳には、青く澄んだ輝きが宿っていた。
「下がりなさい……無礼者!」
胸を張りベルが声を張る。その声には、帝国の叡智の血筋に相応しい威厳が宿っていた。
……本家の帝国の叡智など、比べ物にならないほど、大真面目な迫力が……。
そうして、彼女は告げる。自らの、その誇り高き名を。
「我が名はミーアベル、ミーアベル・ルーナ・ティアムーン。帝国の叡智にして聖女、誇り高きミーア・ルーナ・ティアムーンの血を受け継ぐ者である!」
――瞬間! ベルの視界を光が焼いた。
胸に抱えた本が開き、そこに書かれていた文字が、黄金の輝きを帯びて浮かび上がった。
文字は解け、黄金の糸となり、彼女の体に絡みついていく。
「……あ? え? え?」
呆然と立ち尽くすベル、その体が浮かび上がり……、次の瞬間、光とともに忽然と消えた。
……かくて、時間は流転する。