第八十六話 行きますわ!
その日、キースウッドは爽やかな朝を迎えることができていた。
ちゅんちゅん、と鳴く小鳥の歌うような声が、なんとも愛らしく感じてしまって、思わず微笑む。
「ああ……。気持ちのいい朝だな……」
実になんとも軽やかな気分だった。体をぐっぐっと伸ばし、それから日課であるランニングに出かける。その後、軽く水浴びして汗を流した。
全ての日課を終えたところで調理場へ。昨夜の、晩餐会について改めて報告を受ける。
首尾は上々だった。
――ふっふっふ、すべて計画通り、だな……!
そうなのだ。キースウッドは、飽和攻撃のみによって、ミーアを止められるとは、微塵も思っていなかったのだ!
動き出した帝国の叡智を止めるのに、それでは不足であると、彼は十分に承知していたのだ。
ゆえに、彼の作戦は二段構えだった。すなわちミーアの時間を奪い、そのうえで『安全な森』に誘導するという……。
「都栗茸の情報を、モニカ嬢から教えてもらっていなければ危なかったな……」
彼は、大事にしまっていたメモの束を取り出した。そこには、モニカからのメッセージが書かれていた。
――人間の心理的に、全てを禁止されると却って逆らいたくなるもの。ゆえに、乗り越えられる程度の障害を用意し、満足できるゴール地点を設定する。包囲を緩めて、逃げ場所を用意する、か。ちょうど良い安全なキノコが王都の近郊にあってよかった。
都栗茸は、紛らわしい見た目の毒キノコもないらしいので安心安全だ! 素晴らしい!
――もっとも、このキノコの調査のために、帰国した風鴉の一部が駆り出されたと聞くと、少々、思うところはあるが……。
必死に、森のキノコの様子を調べ回った諜報員に、同情の涙を禁じ得ないキースウッドであったが……それでも、帝国の叡智の安全は、各国にとって非常に重要なことだ。
サンクランドのエリート諜報員たる風鴉の者たちが駆けずり回った価値はあったのだろう……たぶん。
「しかし、都栗茸か……。素晴らしいな」
生で食べて大丈夫というのであれば、何があっても問題ないはずだ。でっかい塊過ぎて生焼けとか、油断したらつまみぐいしてた! などと言う事態も、気にしなくっていいのだ。
「味さえ考慮に入れなければ、どう料理しても問題ない……ああ。実に素晴らしい」
そもそも、生で食べられるという珍しい性質も、ミーアの興味を惹くためには良い情報だろう。
きっと興味津々に食いついてくるに違いない。
――ミーア姫殿下を喜ばせつつ、安全なキノコに誘導する……これが風鴉のやり方か。
やるなぁ! さすが諜報機関だなぁ!! っと感心しきりのキースウッドである。
心強い味方に、感動すら覚えてしまうが……。なぜだろう、一抹の不安を覚えなくもなかった。
それは、あまりにも計算通りに物事が進んでしまったがゆえに訪れる、なんとも言えぬ不安感だった。
「今日はランプロン伯との会談予定を入れているんだったか……。シオン殿下も同行しているし、問題ないだろう。が……」
腕組みしつつ、考える。
――シオン殿下の縁談に関しても、ミーア姫殿下は思うところがおありなのだろう。ロタリアさまとの会談を実現するために、ランプロン伯に話を通しておきたいだろうから、今日の会談は非常に大切なはず……キノコになど頭を使っている余裕はない……はずだ。
……本当に、そうか?
頭の中、誰かの声が聞こえる。
それは、自分自身の声のようにも、今は遠き地にいる苦労人仲間の公爵令息の声のようにも聞こえた。
――いや、大丈夫、大丈夫だろう……大丈夫のはずだ……たぶん、きっと……!
キースウッドは自らを落ち着けるように、ふーぅっとため息を吐き……。
落ち着け、落ち着け、冷静に……と自分に言い聞かせてから!
「よし! 念のために、確認に行くかな! もしかしたら、都栗茸の情報を欲しておられるかもしれないし」
キースウッドは足早に、ランプロン伯邸へと向かった。
さて、王都に建つランプロン伯邸は、その日、華やかな客人たちを出迎えていた。
突然の帝国皇女ミーアの訪問に、館の者たちは浮足立っていた。
特に警備担当のコネリーなどに至っては、数日前から連絡を受けていたにもかかわらず、前日の夜から眠れなかったほどだった。
館の主ランプロン伯もまた、緊張を禁じ得なかった。
もっとも、彼の場合、家臣たちとはまた違った理由での緊張ではあったのだが……。
――はたして、この訪問の意図はなにか……。
保守派の貴族として、オリエンス女大公からはすでに縁談の件を聞いている。エシャールを失った今、保守派としてシオンに対する抑えの必要は頭では理解しつつも、同時に、本当にそれが必要なことなのか? とも思ってしまう。
――エイブラム陛下にしろ、シオン王子殿下にしろ、どちらも賢明な方だ。そのご判断をお支えしていくことこそが、我らサンクランド貴族の真の務めなのではあるまいか……。
などと考えてしまうわけで。
そこへの皇女ミーアの訪問である。
かの帝国の叡智が、保守派貴族の中で面識のある自身に会いに来る。そこに意味を見出すな、と言うほうが無理な話である。
――これは、あるいは分水嶺なのではあるまいか……。はたして、私は、どのような立場を取るべきか……。
剣を突きつけられ、選択を迫られているような心持で、ランプロン伯はミーアたちを出迎えた。
「ご機嫌よう、ランプロン伯」
「ご機嫌麗しゅう、ミーア姫殿下。大変、ご無沙汰しております」
深々と頭を下げるランプロン伯に、帝国の叡智、ミーアはニッコリ微笑み、
「キノコ狩りに行きますわ!」
「…………えーと?」
困惑を隠せないランプロン伯であった。