第八十一話 オリエンス家の母娘
ある夜のこと。
オリエンス公爵邸、女大公ナホルシアの私室に、軽快なノックの音が響いた。
「失礼します。お母さま、少しよろしいでしょうか?」
わずかに緊張をはらんだ声の後、入ってきたのは女大公の長女、イスカーシャだった。まだ、寝間着に着替えていないところを見ると、真面目な話をしに来たらしい。
「少し待っていなさい。これに目を通してしまいたいから」
チラリと娘に視線をやってから、手元の羊皮紙に目を戻すナホルシア。
「それは……?」
「ロタリアのまとめたサンクランド式温室の資料。よくできているわ。まだ少しわかりづらいところもあるけど……」
それでも、前提知識のない者に向けた説明になっているのは感心させられる。
羽ペンにインクを付け、何事か書き足してから、ナホルシアは顔を上げた。眼鏡を取って目元を揉んでいると、イスカーシャが、わずかばかり楽しむような口調で言った。
「未来の王妃殿下のお披露目としては、合格点ですか?」
娘の鋭い指摘に、ナホルシアは苦笑いを浮かべる。
「未来の女大公として、オリエンス公爵領の功績として、あなたが担当したかったかしら? 特に他意もなく、ロタリアのほうが適任だと思ったから任せただけなのだけど……」
それから、娘の目を真っ直ぐに見つめる。その瞳に、ロタリアにはない怜悧な色を見て、ナホルシアは満足げに頷く。
「あなたは、一を見て十を知る人だから、一を見て一を理解する人にわかるような資料は作れないでしょう? ロタリアは一を見て五を理解する子、だからこそ、見に来る者たちに近しい視点で気を回すことができる、とそう思っただけなのだけど」
「そうですか。しかし、それなら、そもそも温室を設計された母さまが直接されたら良いのではないかと思いますが。一を見て百を理解する母さまならば、ロタリアよりも良き展示発表が用意できるかと思いますが……」
試すようなイスカーシャの口調に、ナホルシアはニコリと笑みを浮かべた。
「それより、なにかありましたか? カーシャ。夜もふけた時間に、母の子守歌が恋しくなったわけではないのでしょう?」
「ええ。我がオリエンス領にティアムーン帝国のミーア姫殿下がいらっしゃると、報せが届いたとお聞きしましたので」
「伝書鴉を使った急ぎのものだったわ。恐らく、突然の訪問だったのではないかしら」
ナホルシアは楽しそうに言った。
「確か母さまは、先日の姫殿下の誕生祭で言葉を交わされたと記憶していますが……ミーア姫殿下は、どんな方でしたか? 母さまは、どのように評価なさいましたか?」
「そう……ね……」
小さく息を吐き、ナホルシアは考える。
さて、この目の前の賢き娘に、なんと言って説明すればよいか……。しばし思案し……。
「なんとも、評価に困る……というのが正直なところかしら……。会話をしてみた印象では……ごく普通の姫君と言った印象だった」
取り立てて賢い感じもしなければ、知者の風格も感じ取れない。
――少なくともエイブラムやランプロン伯から聞いていたような、知恵者という印象は受けなかった。善良な人ではあるのだろうけど……。
「功績と当人の実像が食い違う。それが引っかかる……と?」
イスカーシャの指摘は鋭い。そう、まさにナホルシアはそこが気にかかる。
知者からは、それなりの風格を感じるもの。されど、真なる知者は相手を見極めるまでは、その風格を決して悟らせないように隠す。
だからこそ、ナホルシアは知者のように見える相手より、愚者のように見える相手のほうをこそ警戒する。愚者の気配を身に纏いながら、愚者には決してできない功績を挙げたものに対してなど、なおさらである。
「ともあれ、善良な、優れた統治者とは言えるのではないかしら? あの方の先見性により、多くの民が餓えずに済んだ。その一事をもっても、彼女が善良であることに疑いはない。見習うべきところは大いにあるでしょう」
その答えに、されど、イスカーシャはわずかに瞳を細める。
「しかし、帝国の叡智と言えば、我らの風鴉を各国から撤退させた方でしょう。そのことについては、特に思うところはない、と?」
サンクランド諜報部隊、風鴉。その立ち上げには、多くの貴族が関わっている。無論、保守派の重鎮たるオリエンス公爵家も無関係ではなかった。それどころか、国境を守るこの家では、貴重な情報源の一つとして捉えていた。
もっとも、オリエンス公爵領では、国境付近に風鴉とは別の、独自の諜報網を作っているので、近隣の地域に関しては特に問題もないのだが……。
「あれは仕方のないこと。白鴉はやり過ぎた。サンクランドの正義を貶めるがごときやり方、許されることではない。潰されて当然でしょう」
そう断言するナホルシアの声は冷たい。
胸に浮かぶのは、静かな怒りだ。サンクランドの正義を汚す者は、敵以上に許すことはできない。その権威と栄光が揺らげば、国が混乱し、治安が乱れる。このサンクランドで、そのようなことが起きて良いはずがない。
「それにね、一度、混ぜ物された情報を上げてきた組織を以降も信じられるものでもなし。風鴉を引き上げさせたのも、特に問題とは言えない。あれは、あれでよかったと思うべきでしょう。腐った木は伐り倒さなければ危ないもの」
そもそも、白鴉の影響を本当に、完全に、排除することができたのか? そのような疑問がついて回る情報など不要。
そんなものは失くしてしまっても問題ない、とナホルシアは考える。
「つまり、帝国の叡智には、特に含むところはないと……?」
その問いに、ナホルシアはただ黙って頷き、
「サンクランドの栄光のためにと言って、善良なる者と敵対するは正義に反する。それ自体が、サンクランドの栄光を汚すことになる。母の言葉をしっかりと覚えておきなさい、カーシャ」
ナホルシアは娘に教え込む。己が心にある想いとは、裏腹な、理性の言葉を。
「しかし、皮肉なものですね。闇が深ければ深いほど、星は輝いて見える」
口元に皮肉げな笑みを浮かべる娘に、ナホルシアは首を振る。
「昼に夜を恋しがるのは愚かなこと。昼に安らぎを得ながら、夜に備えるのが私たちの仕事でしょう。いつ夜が来ても良いように……灯火を絶やすことなく過ごしましょう。くれぐれも昼に油断するようなことがないように、ね」