第七十七話 オリエンス大公領の双子姫
ロタリア・ソール・オリエンスは、自室で本を読んでいた。
姉に借りた研究書、神が創りし世界の理を解き明かそうとする新しき学問「科学」のものだった。
母、ナホルシアがこの書を読み解き、サンクランド式温室を開発したと聞いて、読み始めたのだ。
サンクランド式温室を紹介する際、まさか、設計図をそのまま出すだけというわけにもいかない。きちんと原理まで理解したうえで説明できれば、と思っていたのだが……。
「な、難解な……」
正直、半分程度しか理解できなかった。
そもそも、文章が読みづらい。研究書なんかそんなもんだとか、そもそも前提知識を持った者に向けての本だから、というのはわからなくもないのだが……。
「もう少し、わかりやすく書かないと本として機能しないんじゃないかと思うけど……」
ふぅっとため息。それから首を振る。
内容が理解できないのは、文章が悪いからだけではない。集中して読めていないからだ。
「それにしても、まさかサンクランドの王妃とは……」
改めて、突如、降りかかって来た運命に驚いてしまう。
いずれ、どこかの貴族の妻となることはわかっていた。
自分が、オリエンス大公家の家督を継ぐことはないのだ、というのは、きちんと理解し、納得してもいた。
それは、ロタリアが十歳の時のこと。その誕生日に、母は言ったのだ。
「あなたは聡明な娘ですよ。ロタリア。事の善悪がきちんとよくわかっている。賢くて、粘り強く挑戦を続けられる根性もある」
偉大な母の言葉がくすぐったくって、ロタリアは笑った。
「ただ……為政者としての決断をするのは難しいでしょう。あなたは、善を知り、正義を成すことは知っていても、そのために相手の命を奪うことに躊躇いを感じる。悪人であったとしても、斬り捨てることに心痛を覚えてしまう。政治を行うには優しすぎるわ」
母の言葉に、ドキリとする。確かに、そうかもしれない、と。
ゆっくりと、ロタリアの頭を撫でながら、母は続ける。
「あなたに私の後を継がせるのは、あなたにとっても、この大公領の民にとっても不幸になるでしょう。だから、その代わり、あなたにぴったりの素晴らしい場所を用意してあげるわ」
その言葉を忘れたことはなかったけれど……。
「まさか、サンクランドの王妃になれなんて……。でも、やるからには、きちんと務めを果たそう」
母から聞いた同い年の従兄弟、シオンのことを思う。
なんでも、最近、良からぬことを言い出しているらしい。王子に助言する諮問機関を作ろうとしているとか……。
確かに、賢王は自身の過ちを認められる度量が求められる。家臣の諫言に耳を傾けることも時には必要だ。だが、最初からそれを頼りにするなどというのは、サンクランド王に相応しいことではない。
サンクランド国王は、神聖典の教えをその身と行いをもって実現する。そして、その正義と威光の下、すべての国を従え、善政を敷かせる。
その信念のもと、歴代の国王はいずれも、感情に支配されぬ、孤高の善王たらんと努力をしてきたのだ。
だというのに……。
「お母さまは、シオンの考え方によほど危機感を覚えているのね。王が揺らげば、民の心も騒ぎ、国が混乱する。よし、私がシオンを立派なサンクランド国王に……」
「ロタリア、いる?」
軽快なノックとともに入ってきたのは、双子の姉、イスカーシャ・ソール・オリエンスだった。
切れ長の瞳に、怜悧な光を宿す彼女は、ロタリアのほうを見て、苦笑いを浮かべた。
「それ、読みづらくない?」
ロタリアは、手元の本に目を落として、苦笑いを返す。
「んー、なんていうか……書いてあることは間違ってないんだろうけど、他人に読ませようという気が一切ない文章って感じ」
ロタリアは肩をすくめる。
「同感。母さまは、よくもまぁ、こんな難しいものを読んでると思わされる」
そう言って、イスカーシャは本を手に取った。
こんなことを言っていても、姉は一応その本に目を通し、なんなら、要点をまとめたメモを作っているらしい。母と同じく、この大公領に入ってくる知識をできるだけ理解し、統治に役立てようというのだ。が……。
「とてもではないけど、その知識を用いて、大公領を富ませようなんてのは無理ね」
姉のつぶやきに、ロタリアも小さく頷いた。
女大公ナホルシア・ソール・オリエンス……。
母は、圧倒的な天才だった。
サンクランド式温室を始めとする数多の発明もそう。絵画や詩歌などの芸術も言うに及ばず、武芸も一般の兵では太刀打ちできないほどの腕前を誇っている。
そして、言うまでもなく、為政者としての政治手腕においても、彼女は非凡な才覚を発揮していた。
国境と言う極めて難しい土地を任されておきながら、オリエンス大公領は、王都近郊に匹敵する発展具合を示している。
「いや、これは国境という、文化と文化の接する場所だからこそできることだから」
などと、なんでもないことのように言っていたけど……ロタリアにはよくわかる。
母は、紛れもなく、不世出の天才だ。
そんな母は、自身の後継として長女イスカーシャを選んだ。
そして、ロタリアにはサンクランドの王妃となるように、道筋を整えつつあった。
「ロタリアがサンクランドの王妃になる、ということは、立場的にも私の上になるのね」
特に感慨もなく、イスカーシャが言った。
その言葉には、特に、含むところはない。妬みもなければ羨望もない。
なぜなら、姉にとって『女大公』という存在こそが至高であり、目指すべき場所だったからだ。
――カーシャは上手くやるでしょうね。必要とあれば罪人を斬り捨てることに躊躇いはないだろうから。
統治者として必要と判断すれば、特に感情を動かされずにそれを行うことができる。姉のイスカーシャは、母より、その性質を受け継いでいた。
一方で、ロタリアは、それができなかった。
たぶん、統治を任されれば、そこそこできる力はあると思っている。
難しいと言われている研究書も、じっくりと読めば理解できるし、ちょっとした応用ぐらいならば、いくらかは思いつく。その他、母の真似ごとをすれば、並び立つことはできなくとも、それなりに維持することはできるだろう。
ただ、それよりは確かに、王妃として立ちまわったほうが上手くやれそうな気はした。
――なんだかんだで、母さまは、私とカーシャのこと、よく見てるんだなぁ。
ナホルシアは天才だった。娘を持つ母としても完璧な人なのだ、と、ロタリアは思っていた。




