第七十三話 コイバナ百景2 ~キースウッド、この上なく冴え渡る!~
サンクランド王都、ソル・サリエンテ。
街を見下ろす王城のバルコニーにて。
シオン・ソール・サンクランドは、街並みを見下ろしながら、小さくため息を吐いた。
街を行く人々の顔は明るい。
落ち付いた治世が保たれている、その証拠だった。
「民の安寧を守る良き統治、か……」
「……あまり、隙を見せないほうがよろしいのではありませんか、シオン殿下」
ふいに聞こえる声。されど、シオンが慌てる様子はない。聞き慣れた、忠臣の声だったから。
「キースウッドか。相変わらず、気配を消して近づくのが上手いな。全然、気付かなかった」
振り返ることなくそう言えば、忠臣は呆れ顔で隣に並んできた。
「今のあなたなら、どれだけ下手な暗殺者でも討ち取れてしまうように思いますけどね」
バルコニーに寄りかかり、シオンは続ける。
「町を見ておられたんですか、シオン殿下」
「ああ。こうして民の様子を眺めるのは、国王にとって必要なことだろう?」
肩をすくめて、誤魔化そうとするが……。
「……ロタリアさまは、お気に召しませんか?」
忠臣の踏み込みは、なかなかに鋭かった。
苦笑いを浮かべつつ、シオンは首を振る。
「気に入るとか、気に入らないとか、そういう問題ではないな。次期国王として、それが国のため、民のためになるというのであれば、受け入れるまでのこと。父上たちが話を止めているから、あれ以上進んではいないが、ナホルシアさまがあの調子では、ほどなく縁談に向けて動き出すのではないかな」
「それが気に入らないと?」
「……実感がないのは確かだな。彼女とは昔馴染みだから……」
幼き日、王城で駆け回ったことを思い出す。彼女と、彼女の姉と……。
それと結婚と言われても、なかなかに実感が湧かないのは、嘘ではなかった。
「ふーん……」
「なにか、言いたそうだな、キースウッド」
「いえ……ただ、気に入らないというよりは、むしろ、他に気になっている方がいる、という感じかな、と思っただけで……」
「ずいぶんと突っ込んでくるじゃないか」
いつになくしつこいキースウッドをいなしつつ……。
「別に気に入らないとは言ってないんだがな……」
キースウッドの言うことに、心当たりがないわけではない。むしろ、なんのことを言っているのか、わかりすぎるぐらいだった。
――ティオーナ、か……。
あの日、ミーアに告白を断られた日。
彼女には、確かに救われた。
ただ黙って、そばに寄り添ってくれた彼女の存在が、なによりもありがたかった。
けれど、シオンが彼女への好意を認識したのは、ルドルフォン領を訪ねた時のことだった。
「ティオーナは今、畑のほうに出ておりまして……もうすぐ帰ってくると思うのですが」
予定より早く着いてしまったシオンに、ルドルフォン辺土伯は申し訳なさそうに言った。
「いえ、こちらが予定よりもだいぶ早く着いてしまっただけですから……。それならば、せっかくなので、ルドルフォン領の畑を見させていただきたく思うのですが……」
そんなやり取りの後、向かった先。見事に広がる畑に、民に交じって仕事をするティオーナがいた。
額の汗を拭いつつ、周りの者たちと笑顔を交わし合う。頬に土を付けつつも、自ら農作業の先頭に立って働く令嬢。
今まで会った誰とも違う、その魅力にシオンは驚き……そして、惹かれたのだ。
土を耕し、作物を育てて生きる。
その生命力と活力、なにより、素朴な魅力に……。
確かに、シオンは惹かれていたのだ。
ずっと、自分の隣にいて、支えてくれたら……と、そう思ったのだ。
だが、同時に、こうも思ってしまうのだ。
サンクランドの王妃になることは……はたして、ティオーナにとって幸せなことなのだろうか? そして、ルドルフォン領の領民にとって、良いことなのだろうか?
シオンは、人の心を捨てて王になろうとは、もはや思ってはいない。そうして下す「正しい判断」が人として正しいものだとは思えないからだ。
けれど……それでも、どこまで行っても……シオンはサンクランドの王子なのだ。サンクランドの王になるということを、捨てることは、彼にはできないのだ。
そして、その妻となるということは、サンクランドの王妃になることである。それはすなわち、ティオーナと、あの領民たちとの絆を断ち切ることになってしまう。
「ティオーナを、ルドルフォン領の民たちから奪ってしまう。それは、果たして許されることなんだろうか……と。どうしてもそう思ってしまうんだ」
悩ましげに、シオンは顔を歪めた。
その答えを聞き、キースウッドは言いかけた言葉を呑み込んだ。
「まぁ……サンクランドの将来にかかわることですし、悩むのは正しいことだとは、思いますけどね……」
言葉を選びつつそう言ってから、キースウッドは顔を歪める。
――なるほど、彼女を王妃にしてしまうことへの罪悪感、か。俺にはわからない感覚だな。
軽く頭をかきつつ、キースウッドは腕組みする。
――それに、王国としては、国王家はオリエンス大公家との関係を、良好に保っておくに越したことはないわけだし。単なる恋愛相談ならいいんだが……国を左右するって言うなら、なかなか助言が難しいところだな。
思わず、なんと声をかけたものか、考えてしまう。
――ルドルフォン領の領民やサンクランドの国民のことを考えてのことなのだろうが、個人的な事情を完全に排することは、人間性のない王に繋がる気がする。それはシオン殿下が改めたいとお考えのものだ。もっと殿下は、自分本位になっても良いと思うのだが……それは俺の口から言えることではないか……。そういうことを言える方がいればいいのだが……。
やれやれ、と首を振り……。
――しかし……まぁ、こうして恋愛相談ができるっていうのは、ある意味で幸せなことなのだろうな。その余裕があるってことだし……。
この時、キースウッドの勘は冴えていた。
ほとんど記憶にない悲劇的な未来の気配を、嗅ぎ取ってしまうほどに。
「はは、急に難しいことを考えたものだから、なんだか、背筋に寒気が……」
この時、キースウッドの勘は、この上なく! 冴えていた。
これから訪れるかもしれない悲劇的な未来の気配を、嗅ぎ取ってしまうほどに!
「……ん? 寒気……はするものか? 恋愛相談で? いくら難しいことだと言っても……寒気? あれ? これは……シオン王子の相談のせい……だよな……? なにか、覚えのあるいやぁな感じが……」
さて、ところ変わって……。
ティアムーン帝国からヴェールガを経て、サンクランドへと至る道すがら……。ミーアは恋愛戦略会議を行っていた。参加者は、ミーアとティオーナ、アンヌとリオラであった。
馬車に揺られつつ、ミーアは、真面目腐った顔でつぶやいた。
「ティオーナさんが、シオンの心を掴むには、やはり原点回帰が必要なのではないかしら?」
「原点回帰、ですか……?」
首を傾げるティオーナに、ミーアは腕組みしつつ……。
「ええ、思えば、あれがわたくしたちの始まりのアプローチと言えるかもしれませんわ。あの……ウマパンが!」
「――っ!」
ミーアの言葉に、キリリッと背筋を伸ばすアンヌ。さらに、リオラが思い切り拳を突き上げ、
「肉、焼くです!」
「ええ。サンクランドも広いですし、外でお肉を焼ける場所もあるでしょう。期待しておりますわ」
「私も、パンを馬の形にするのを頑張ります!」
アンヌの心強い言葉に頷きつつ、
「お野菜を切るのは任せてください」
ティオーナの顔に心強さを覚えつつも……。
「ナホルシアさんのほうをなんとかした後、シオンの心を掴む料理をティオーナさんが作る。わたくしたちは、その手伝いをするのがよろしいのではないかと思っておりますの。まぁ、材料を事前に用意するわけにもいきませんから、現地調達ということになりますけど、いざとなれば、どこの国にだって森の一つや二つございますし。生存術を極めたわたくしにかかれば食料ぐらい簡単に見つけられますわ。たまには、そういうのもよろしいのではないかしら!」
キースウッドの勘は……この上なく冴え渡っていたのであった。




