第六十八話 聖ミーア学園教科書より
帝国の叡智、ティアムーン帝国女帝、ミーア・ルーナ・ティアムーンは自分の像を造るという、礼賛行為を嫌う人だった。
凡百の王族が好む、自身の黄金像なるものを愚劣だと断じ、そんな無駄なことに使うぐらいならばその金で食料を買い、貧しき者たちの腹を満たすことを是とする人だった。
そんなミーア陛下に、唯一正式に、木像を作る許しを与えられた部族があった。
帝国南部の静海の森に住まう少数部族、ルールー族である。
彼らの作り出すルールー細工は、今では優れた工芸品として知られており、一部の愛好家たちに高値で取引されるものだが、その当時はまったくの無名。産業の体を成していないものであった。
そんな彼らの名を一気に高めたのが、パライナ祭に展示された、皇女ミーアの木像である。
自身の像に好ましからぬ目を向けていたミーアさまが、なぜ、ルールー族に許可を出したのか?
それは、かの帝国の叡智が、ルールー族の者たちに、自らの一族と森での生活に誇りを持ってもらおうと思ったから……。すなわち、帝国臣民の多様性を維持するための措置であったのではないか、と私は推察している。
傍証がある。
ルールー族出身のリオラ・ルールーはこう語る。
「あの日、静海の森にいらっしゃった時、ミーアさまは、ルールー族の者と私との会話を聞いていたのだと思います。その男性は言っていました。自分の子どもが聖ミーア学園に通いたい、と言い出して困っている、と」
すっかり流暢になった言葉で、彼女は証言した。
恐らく、ミーアさまは、危惧を覚えられたのではないだろうか。
ルールー族の子どもたちが、聖ミーア学園で学ぶのは良い。同じ学び舎で、さまざまな出自の子どもたちが互いのことを知り合うことは、平和への第一歩だからだ。
けれど、その先……。もしも、ルールー族の者たちが帝都に憧れ、街での生活に憧れを持ってしまったらどうか?
そこに移り住む者たちが大勢現れたら、ルールー族の村はどうなってしまうのだろうか?
静海の森は、ルールー族が先祖代々、命懸けで守ってきた場所だ。森の木々は、彼らが神から賜った大切な財産なのだ。それを捨て、街に移り住む者が増えることを、ミーアさまは危惧したのではないだろうか。
もう一つ、傍証がある。それは「愚かなる末息子」というルールー族に伝わっていた寓話だ。完全な寓話ではなく、歴史的出来事に基づいているのであろう、その話をミーアさまはお聞きになられた。
そして、恐らくは、その可能性に思い至ったのだろう。
人は、若い日には闇雲に自由を求めるもの。
開けた街に憧れを持ち、湧き上がる覇気に身を任せ、不便な故郷を飛び出すもの。
されど……はたして、それは正しいことだろうか?
別に、街は自由ではない。彼らの憧れるような、なにものにも束縛されない世界など、存在しない。
憧れは現実に呑まれ、若い覇気は薄れ、後に残るのは、すり切れた現実のみ、というのもよくある話だ。
だからこそ、ミーアさまは与えようとした……否、若者の目に見えるようにしようとなされたのではないだろうか?
彼らの一族が守って来た生活に対しての揺るがぬ誇りを。
彼らの生き方が、決して、街の人々に劣るものではないのだ、ということを。
憧れは一時、そのようなものに惑わされるより、本当に誇るべきものに目を向けるべきではないか、と。
騎馬王国の者たちは、馬を愛する人たちだ。馬と共に生き、馬と共に死ぬ。
馬は、神が彼らに与えし財産であり、それを捨てるなど考えられぬこと。馬から離れた生活も、想像すらできぬもの。
それほどに、彼らにとって馬は大切なもの。馬は彼らの誇りなのだ。
そして、ルールー族にとっての森や木も同じ物である、と……。
ミーアさまは、そう考え、それを、若者たちにもわかりやすい形で表明しようとされたのではないだろうか?
無論、人には自由意志が与えられている。街での暮らしを選ぶ者はいるだろう。
それを否定するミーアさまではないし、専属メイドとしてサンクランドに行き、そこで大成したリオラ・ルールー嬢のような生き方も、ミーアさまは否定されないだろう。
ただ、ミーアさまは問いかけているのだ。
偽りの憧れを排し、虚飾を排し、真に価値のあるものはなにか、と。
大きな街には商人の金が集まる。華やかな装飾品も、黄金も……人々が憧れるものも集まってくる。
けれど、ミーアさまは、おっしゃられる。
それより、この静海の森の木のほうが良い……、と。
そして、それを証明するかのように、その御髪には、いつでも一角馬の簪があった。
新月地区の名もなき少年から献上された、虹色に輝く簪が……。
「ルールー族に対する女帝ミーア陛下を模した木像制作の特別許可および専売許可に関する考察」ルードヴィッヒ・ヒューイット著 聖ミーア学園教科書より
これは、聖ミーア学園で用いられている教科書の一文である。
幼少期を森で育ち、はじめて聖ミーア学園で帝国人と共同生活をするようになったルールー族の子どもたちが、必ず読まされる文章である。
だからどう、ということはないのだが……まぁ、そういうことなのである。




