第五十七話 その日、彼女は何を思って……
さて、時間は少し戻って……。
帝都ルナティア、ブルームーン公爵邸にて。
「ミーア姫殿下のためになること、じゃと……ふむ、なるほどのぅ……」
ヨハンナは険しい顔でシュトリナを睨んでいたが、ほどなくして、ふと表情を緩めた。
「まるで怖気づかぬとは、我が娘とは違って大した胆力じゃ。それに、興味本位というわけでもなさそうじゃな。まぁ、興味本位でも別に構わぬが……」
再び扇子を広げ、上機嫌に扇ぎつつ、
「して、なにが聞きたいのじゃ? 我が友の不名誉になるようなことでない限り教えようぞ」
「ありがとうございます。それでは、お二人の出会いからお聞きしたいのですけど……」
頭を下げつつ、とりあえず、ということで、シュトリナは二人の思い出について聞いていくことにする。
「そう。アデラと出会ったのは、ちょうど、妾がブルームーン家に嫁いできてすぐのことじゃった。慣れぬ帝国社交界で気を張っていた妾に、話しかけて来てくれてな。あの頃はまだ、コティヤール侯爵令嬢であったが……。柔らかな、人の心を落ち着ける笑みを浮かべる娘じゃった」
懐かしげに目を細め、ヨハンナは続ける。
「アデラがマティアスさまと婚儀を結ぶことになった時には、妾は心から喜んだのじゃ。なにしろ、大恩あるパトリシアさまの義娘に、我が親友がなろうとしていた。しかも、我がブルームーン家と帝室とは血縁の関係。これほど喜ばしいことはないであろ?」
「はい、よくわかります」
シュトリナも、親友と遠縁であることが嬉しいクチである。未来の世界でも気楽に遊びに行けるだろうし、帝室と血縁で良かった、と思うシュトリナである。
「そういえば、アデライードさまは、お若い時分より、お体が弱かったとお聞きしていますが、そのことについて、なにか、懸念は出なかったのですか?」
未来の皇妃が病弱というのは、国にとってあまり好ましいことではないだろう。反対する貴族もいたのではないか、と思ったのだが……。
「いや、妾はあまり聞いたことがないな。パトリシアさまがすべて押さえ込んだのかもしれぬが、もとより、結婚当時のアデラはそこまで病弱という感じはなかったのじゃ。幼い頃は体が弱かったとは聞いていたし、その当時も病弱であるとは囁かれていたが、実際に顔を合わせた彼女からは、一切、そんな気配は感じなかったのじゃ」
それから、苦しげにヨハンナは顔を歪ませる。
「パトリシアさまが亡くなられた後ぐらいであったろうか。やはり心労もあったのであろ。アデラは体調を崩すことが多くなった。マティアス陛下は手を尽くし、国の内外から医師を呼んだが……結局、原因はわからずじまい。弱った体で無理をして子を産んだアデラは、そのまま……」
暗い顔で、ヨハンナは首を振った。
「せっかく、パトリシアさまが妾に託してくださったというのに……、妾にはなにもできなかったのじゃ……」
自分を責めるようなその言葉に、けれど、シュトリナは応えることができなかった。それどころでは、なかったから……。
――パトリシア皇妃殿下……パティが生きている間は、アデライードさまの病気は抑えられていた……?
判明した事実に、シュトリナは愕然とする。震える手を紅茶に伸ばしつつ、頭の中、それが意味することを考える。
――もちろん、確実なことは言えない、あくまでも推論にすぎないけど……でも、もしかすると、アデライードさまはハンネスさまと同じ病だった?
彼女の中で、一つの推理が形作られつつあった。
そして……もしそうならば、なぜ、パティが死ななければならなかったのか……その理由が、シュトリナにはわかった気がした。
――シドーニウス・フーバー子爵は蛇導師で、その当時の蛇たちの指導者的立場だった。そして、ハンネスさまの薬の作り方は彼しか知らなかった……。もし、そうならば……。
皇妃パトリシアは脅されていた。
幼き日より、弟の病をネタに蛇に縛られていた。蛇からもらう薬だけが、唯一、弟を生き永らえさせる方法だった。
でも、水土の薬によって、弟が解放される。それに伴い、パトリシアもまた、蛇から解放され、ミーアの作り出した『現在』へと至る道筋を付けることができるようになった。
自由に、その手腕を振るい援護ができるようになる。そのはずだった……。
だが、アデライードが同じ病気であったなら、どうなるか……?
――同じように脅される。いえ、もっと酷い脅され方をする。もしかしたら、蛇はパティを始末して、皇帝陛下を縛る形にするかもしれない。
そうなれば影響はミーアにまで及ぶ。当然、自由には動けなかったし、現在のような体制を築くことは到底できなかった。
だから、パティは……シドーニウスを殺さなければならなかった。
なぜなら、息子であるマティアスが脅された時、どういう行動をとるのか、母であるパティにはよくわかっていたから……。
蛇との禍根を断ち切るため、パティは薬の作り方を知るシドーニウスを殺さなければならなかった。けど……それは同時に、アデライードの死にも繋がる選択だった。
ミーアの生きる世界を成立させるためにアデライードを死なせる。その選択を取らざるを得なかったパティは……いったいどのようなことを思っていただろうか……?
自分は……自分だけは大切な弟を救いながら。
息子の大切な妻を、ミーアの大切な母を……。
アデライードを死なせる選択をしてしまった事実を……。
彼女は、ただ一人で、どのように受け止めただろうか……?
その答えが、パトリシアの最期であったのではないか?
この期に及んでなお、パトリシア・ルーナ・ティアムーンの死の運命は覆っていない。燃え落ちる館の中での焼死。その歴史は変わらない。
あの賢いパティが、その運命から逃れることができていない。その理由は……。
――もしかして、パティは生き残る気がなかったんじゃないかな……。現在の、ミーアさまが辿り着いたこの世界が幸せであればあるほど、生き残ることができなかったんだ。ミーアさまに、合わせる顔がなかったから。
この幸せな世界に、ミーアの母を死に追いやった者として、現れることができなかった。その罪悪感は、パティには重すぎた。それを自らの胸の内に留めたまま、何食わぬ顔で生きることが、彼女にはできなかった。
自分の存在は、この幸せな世界を濁らせるものであると考えた。
だから、パティは生き残る努力をしなかったのではないか?
あくまでも、それは推論に過ぎない。されど、シュトリナはなんとなく、それが正解だと思っていた。他ならぬ、かつて蛇であった彼女だからこそわかること。自身を悪辣な蛇から解放してくれた人に対しての恩義は、それほどに大きいのだ。
それと同時に、シュトリナはもう一つ……別のことについての符合が気になってもいた。
もしも、その推論が正しいなら、それは、一つの光明でもあり、けれど……。
――いえ、そうとは限らない。ともかく、今は生命の木の実と水土の薬を作ることに全力を注ぐべき時だから……。余計なことは考えない。
今すべきことに集中することで、シュトリナはそっと目を逸らした。