第百三十九話 馬シャンの奇跡(摩擦係数的な……)
「あっ、あ、あなた、は?」
「ははは。かの帝国の叡智に名乗るなど、とてもとても……。そのようなおこがましい真似はできませんよ」
小馬鹿にしたような、ふざけた口調で言って、芝居がかった仕草でお辞儀までして見せてから、男は小憎らしげな笑みを浮かべた。
「ミーア、無事かっ!?」
直後、慌てた様子のアベルとシオンの両王子、さらにアンヌとディオンとが下りてきた。
「お前がジェムか?」
シオンの鋭い問いかけに、ジェムはやれやれと肩をすくめてみせた。
「俺の名を知ってるってことは、もしかすると、白鴉の計画もすでにご存じってことですかね?」
「その通りだ。お前たちの企みはすべて露見しているぞ」
そう言って、シオンは剣を抜き放つ。
「お前の仲間たちも投降している。無駄な抵抗はやめろ」
「仲間、ねぇ……」
ジェムは、なぜか、苦笑いを浮かべて首を振った。
「それにしてもグレアムの奴も可哀想に。せっかくの国家への忠誠もお若く潔癖な殿下には受け入れられなかったか」
「諦めなよ。ダサエフ・ドノヴァン伯もすでに救出した。あとはお前だけだ」
反対方向、すなわち地下の方角から声が響いた。
暗がりから現れたのは、涼しげな顔をしたキースウッドだった。
これで、ジェムは挟み撃ち状態である。
「抜け道まで見つかったのかよ。やれやれ、シオン王子だけじゃなく、従者の方も噂に違わぬってやつだな……」
階段の上にはシオン、地下にはキースウッド。
挟み込まれるようにして立つジェムと……、その場をこっそり逃げようとしているミーア。
――こ、この隙に逃げませんと……。
さりげなく、何気ない風を装ってその場を離れようとしたミーアであったが、
「おおっと、動かないでもらおうか?」
直後、ひたりと冷たい金属の感触が首筋に走った。
「ひんっ!」
ミーアは息を呑んで飛び上がった。
自らの首筋に突き付けられた抜身の刃、脳裏によみがえってくるのはギロチンの、冷たく重たい刃の記憶だ。
「下手なことは考えるなよ。お前の首を切り落とすことなんか簡単なんだぜ」
ジェムの言葉に、こくこくと頷き、ミーアは体を固くした。
「馬鹿な真似はやめろ。サンクランド本国は風鴉も白鴉も擁護しない。もうすでにお前たちの計画は破綻しているんだぞ」
「そんなつれないこと言わないでくださいよ、シオン殿下。あんまりショックで手が滑って、この小娘の首を切り落としてしまうかもしれませんよ?」
ジェムは、まるでいたぶるかのように、刃で、とんとんとミーアの肩を叩いた。
「なにせ、こっちはこの小娘に計画つぶされて恨み骨髄なんすから、ね」
「ひぃい…………」
ミーアのひきつるような悲鳴の直後――ぴちょん、と湿った音が響いた。
何かが垂れる音……、ジェムはミーアを見下ろして馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「へっ、帝国の叡智っつっても、ガキはガキ。無様なことで」
ミーアのスカート、それが濡れているのを見て、その場の誰もが思った。
ああ、恐怖のあまり、ミーアが粗相をしてしまったんだ……と。
けれど、ただ一人――それが違うことに気づいた者がいた。
ミーアの一番の忠臣、アンヌだ。
――違う! この匂いは……。
鼻をくすぐるのは花の香り、それが嗅ぎ慣れた香りで……。
自らの、大切な主君の髪を飾る芳しい香りだと気づいたから……。
『アベルにいただいたものはもう少しヌルヌルしていた気がしますわ』
その洗髪薬は、油の配合のせいなのか、普通のものよりさらにぬるぬるしていて……。
だから、つまり、それはっ!
「ミーアさまっ! 走ってっ!」
突然、声を上げたアンヌにその場にいた全員が一瞬、動きを止める。
けれど、ミーアは……ミーアだけは! その忠臣の指示を信じ切って思い切り走ろうと、足を踏ん張った!
直後、時間は動き出す。
「このガキがっ!」
逃げ出そうとしたミーアに気づいたジェムは、憎き帝国の叡智の首を刈ろうと剣を振り上げて、思い切り真横に振るい……。
それは、ミーアの細く幼い首筋を造作もなく斬りおとす――かに思われたのだが……。
つるんっ!
踏み出したミーアの足が、思い切り後ろに滑った。
「ひゃあっ!」
靴底をたっぷり濡らす洗髪薬が生み出したのは、戦闘訓練を積んだ者であっても予想できない、想定外の動き。
ミーアはそのまま勢いよく前のめりにすっころんだ。
その後頭部をびゅんっという、風切り音が走った。
「うひゃあっ!」
ちょっぴりはしたない悲鳴を上げてしまうミーアだったが、それを咎める者は一人もいない。
「くそっ、このっ! うおっ!」
再度、剣を振り上げて、ミーアを突き殺そうとしたジェムであったが、歩み寄った際に、洗髪薬を踏んでしまい、真後ろにすっころんだ!
その手から、剣が離れて飛んでいく。
「ミーアさま、早く、早くこっちにっ!」
「ひ、ひぃっ! ひぃっ!」
立ち上がり、ジタバタとアンヌの方に向かおうとしたミーアが、再度すっころぶ。
その足は勢いよく、後方へと投げ出された。そして……、その先にはちょうど立ち上がり、ミーアを捕まえんと追いかけようとしていたジェムの姿があった。
「このガキっ、待ちやが……おぐっ!?」
……それは、たまたま起きてしまった不幸な事故だった。
たまたますっころんだミーアの足の高さが、ちょうどよく、こう……、ジェムのた……いや、あえてどことは言うまい。あまりにもしょーもなさすぎる……。
ともかく、蹴り上げたのだ。思い切り、ミーアが……。
「ぐぉおおうっ!」
くぐもった声を漏らして、ジェムがその場にしゃがみ込む。
そんな彼に、剣を構えたディオンが歩み寄るが……、
「あー……、まさか、姫さんがとどめを刺すとは思ってなかったな……」
呆れたような口調で、言った。
かくして、黒幕の一人、ジェムは見事、撃退された。
事件を終結させた決まり手はいずれも帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンの麗しき脚から繰り出された華麗なる蹴りであった。