第五十話 幻でしょうか?
ルドルフォン辺土伯領の豊かな畑の中を馬車で進む。
見渡す限りの広大な畑、ほんのりとした霜の白さの中に、ちょこちょこと緑色の穂が顔を出しているのが見えた。
本来であれば可愛らしくも、やがて来る収穫を想像して心強く感じてもおかしくはない光景……されど、なぜだろう……ミーアはなにやら、こう、不気味な物を感じてしまう。
なんとなくだが、その畑の上に巨大な人の顔が見えた気がして、ゾクリ、と背筋が震える。
その顔は、どこか得意げな表情をした自らのものだった!
目をこすりこすり、改めて見れば畑は普通の畑だった。
一瞬のことだったし、たぶん、見間違えだったのだろう。振り返ったら、やっぱりありました! とか、そんなことはないはずだ。たぶん……。
――畑で、わたくしの肖像画を描く、などと言うアイデアを知らなければ、このように小麦畑に恐れを抱くなどと言うことはなかったでしょうに……ううぬ、恐ろしい。これが思考汚染というものですわね。蛇の技もこれと似たものと考えれば、実に恐ろしいですわ。
魔窟ミーア学園の生徒たちの所業により、改めて、蛇の恐ろしさを実感するミーアなのであった!
まぁ、それはさておき……。
そんなこんなで、馬車に揺られることしばし、辿り着くはルドルフォン邸。
帝都に建つ門閥貴族のものと比べ、いささか小ぶりなその館の前に、ルドルフォン辺土伯が立っていた。
その右斜め後方にはティオーナが、さらに、リオラを含めた数名のメイドが並んで、ミーアの到着を待っていた。
「ご機嫌よう、ルドルフォン辺土伯。ご無沙汰しておりますわね。急な訪問にご対応いただき感謝いたしますわ」
優雅に馬車を降り、ちょこん、とスカートを持ち上げる。っと、ルドルフォン辺土伯は胸に手を当て深々と頭を下げる。
「ご機嫌麗しゅう、ミーア姫殿下。ご無事の到着、心よりお喜び申し上げます」
その隣にいるティオーナも静々と頭を下げている。一見すると、変わった様子はない。
正直なところ、すぐにでも話を聞きたいところだったが……。
――まぁ……恋煩いであれば、お父さまの前でするのは、酷な話。後でお部屋を訪ねてじっくり聞くことにいたしましょうか。
とりあえず、そう判断し、ルドルフォン辺土伯の案内で応接室へと向かった。
「ところで、セロさんのお姿が見えないようですけど、今は学園のほうかしら?」
「はい。開催されるパライナ祭に向けて、意気込んでおります」
「そう。まぁ、お元気ならばなによりですわ」
テーブルの前に腰を下ろす。間を置かず用意された紅茶に目を細めつつ、カップを手に取る。良い香りに、おや? と眉をひそめて……。
「この茶葉……もしやペルージャン農業国のものかしら……?」
「さすがはミーア姫殿下。ご慧眼、恐れ入ります。学園を通して、ペルージャン農業国のアーシャ姫殿下とも縁ができまして……。しかし、ペルージャン農業国の技術は素晴らしいですね。我が領の農業にも大いに活用していきたく思っております」
朗らかな笑みを浮かべるルドルフォン辺土伯。心なしか、堂々とした風格が出てきたように見える。
それもそのはず、今や彼は、ベルマン子爵と並ぶミーア派を代表する貴族である。帝国各派閥の少なからぬ者たちが、ルドルフォン家に注目していた。
それゆえに、なかなかに難しい立場に追いやられている、とも言えた。
実のところ、ティオーナが四大公爵家のパーティーに参加できなかったのも、その辺が理由であった。
ミーアの誕生日パーティーは、ある種の派閥の集まりである。そこには、どうしても、権力争いの側面がある。
各陣営にとって、ミーアと関係の深いルドルフォン辺土伯は、ぜひとも味方に取り入れたい存在であった。
しかしながら、門閥貴族が多く集うブルームーン派閥は、新参の辺土伯の娘を呼ぶわけにはいかない。
一方でレッドムーン家は、むしろ積極的に呼びたい立場だった。ルールー族の弓術は、レッドムーン家としては関心を寄せるところであった。ゆえに、参加するわけにはいかない。ルールー族を軍事力として差し出すつもりはないルドルフォン辺土伯である。
グリーンムーン家もまた難しい立場だ。聖ミーア学園にエシャールを送り出している関係上、ベルマン子爵、並びにルドルフォン辺土伯とも関係が深い家柄と見なされている。ティオーナがパーティーに参加したら、やはりルドルフォン辺土伯はグリーンムーン派か? と勘繰られかねない。
イエロームーン家はイエロームーン家で、ルドルフォン家を取り込むことで、緊張を高めるようなことは望まない。元より四大公爵家で最も目立たない家ではあるが、ルドルフォンを取り込んで一気に勢力を増そうとしている、などと見られるかもしれない。
結果、事を荒立てないために、ティオーナはどこにも呼ばれなかったのだ。
――いっそ、すべてのパーティーに呼んであげればいいですのに。あるいは、第五の勢力としてルドルフォン家でパーティーを開くとか……。
ケーキを食べる機会が増える分には大歓迎なミーアなのであった。ともあれ……。
「それは心強いことですわ。辺土伯領で収穫される小麦のおかげで、帝国もずいぶん助けられておりますもの」
上機嫌に笑って紅茶を一口。
「いえ、それはミーア姫殿下のお取り計らいとミーア二号小麦の功績ですので……全てはミーア姫殿下の……」
「あら、ミーア二号小麦はセロくんの功績ですわ。それに取り計らうもなにも、ルドルフォン辺土伯領の小麦を、ルドルフォン卿の思うように流通させよと言っただけですし。つまり、ルドルフォン辺土伯の……」
「それをおっしゃるならば、ミーア姫殿下のお建てになった学校、そして、ミーア姫殿下がスカウトされた講師である、アーシャ姫殿下のおかげで、セロは鍛えられました。それがなければ、このような素晴らしい結果を出すことは叶わなかったことでしょう。やはり、すべてはミーア姫殿下のお取り計らいと心得ております」
なぁんて、お互いに褒め合うことしばし。
「ところで……」
本題、とばかりに、ルドルフォン辺土伯は咳払い。それから、チラリとミーアを見つめて、
「こたびは、静海の森にご用があるとか……」
「ええ。そうなんですの。ルールー族の方たちにご協力いただきたいことがございまして」
ミーアは澄まし顔で頷いてから、
「つきましては、ティオーナさんとリオラさんにお付き合いいただきたいのですけれど、お二方をお借りしてもよろしいかしら?」
そうしてミーアは、静かに会話を見守っていたティオーナに目を向けた。