第三十七話 ある名前……
ミーアが特別初等部のパーティーにお呼ばれして、訓示を垂れている頃……。
シュトリナ・エトワ・イエロームーンは図書室にいた。
ベルの追試が、二日後に迫っていたからだ!
教科書を手に、ベルは、むむぅっと眉間に皺を寄せる。
「ミーアお姉さまは、教科書を全て丸暗記すればいい、なんて言うんですけど、それは、ちょっと非効率だと思うんです」
「まぁ、それは確かに……」
ベルのお勉強見守り隊筆頭、リンシャはしかつめらしい顔で頷く。
「それに、全部を暗記するというのは、ミーアお姉さまだからこそできることだとも思うんです。ボクにはできません」
「ベルちゃんでも、やる気になればできると思うけど……」
基本的に、ベルを高く高く評価しているシュトリナである。それはなにも、親友びいきなだけではない。実際にベルは、追い詰められればミーア並の底力を発揮する、ポテンシャルを秘めているのだ。
……ミーア並の底力、というの自体が微妙な気がしないではないのだが、それはともかく。
ベルのモチベーションを高めようと言葉を続けようとする、ベルのお勉強見守り隊次席のシュトリナであったが、ベルは大真面目な顔で首を振り……。
「いえ、ボクはお勉強に頭のすべてを使うようなことはしたくないので……」
きっぱりと言うベルである。
折々に、ベルの過去話を聞いているシュトリナは、ベルのちょっぴり刹那的な冒険気質が、壊滅した帝都での、明日をも知れない生活にあるのではないか、と分析していた。
だから、お勉強をサボっても仕方ないのかも……と少しだけ優しい気持ちになりかけていたところで……。
「ということで、教科書の三分の一、つまり、三ページに一ページの割合で暗記するというのはどうかと……」
ベルが聞き捨てならないことを言い出した。
「この前のテストで同じようなことをしてませんでしたっけ?」
ジトッとリンシャに見つめられるも、怯むことなくベルは言う。
「いえ、前回は五分の一でした。さすがに、ギリギリを攻め過ぎました。五ページに一ページを暗記しても、なんだか、意味がわからなくって……」
「ベルちゃん、ちゃんと教科書の文章の流れを理解しないと身につかないよ。ミーアさまも、すべて暗記して、全体を体系的に理解しなさいって言ってるんだと思うし、もう少し頑張ろう」
とまぁ、こんな感じで。油断していると、すーぐに蛮勇を振るって、生きるか死ぬかのギリギリの大冒険ラインを攻めちゃおうとするベルが、ズルしないように見守りつつも、シュトリナは幸せを感じていた。
――ふふふ、楽しいな。この冬も、ベルちゃんと遊べたし……。来年も……。
っと、そんなことを考えたところで、不意に考えてしまう。
ベルが、いずれは未来の世界に帰っていくということ……。
いつか未来に帰ってしまう時、その別れの時、はたして、自分は耐えられるだろうか。
しっかりと備えをして、将来、また再会した時に一緒に遊べるように、若さを保つ。そうして、時を経て友情を再開するのだ、と……。頭ではわかっている。だけど……。
――再会までの長い時間……、リーナは耐えられるかな……?
その時、不意に、どこかのすかした帝国最強の声が脳裏を過る。
『ほかにも友だちでも作っておいたほうが良いんじゃないかな』
なぁんて、偉そうに言いやがったのだ! 言いやがったのだっ!!
その涼しげな顔を思い出し、シュトリナはうぐぐっと唸る。
そもそも、あの男は、地下水路での出来事の後も飄々とした顔をしていたのだ!
特に気まずそうにするでもなく、気恥ずかしそうにするでもなく、平然と朝の挨拶などしてきやがったのだっ!
それが微妙にショックで……なんとも、腹立たしくって……。
――まぁ、あれは別に……。ただの治療だし、生き残るための手段だし……。別に……。
なぁんて、友情に、恋に、悶々と悩む乙女のシュトリナなのであった。
ふと……そんな自分の姿を認識して、シュトリナは小さく笑ってしまう。
よくよく考えると、なんだか、ひどく平和なことで悩んでいるように感じてしまって……自分が、ごくごく普通の少女になったように感じてしまって……なんだか、おかしくなってしまったのだ。
――蛇に支配されていた頃には、こんなこと、想像もしなかったのに……。
そう思った刹那、シュトリナの心にある少女が浮かぶ。
それは、蛇の後輩とも呼べるような年下の少女、パティのことだった。
――パティも、こんなふうになれればいいのに……。これから行く先はとても辛い場所だけど、でも、なんとかしてあげられないかな……。
「あ、シュトリナさま、こちらにいらっしゃいましたか」
声をかけられて、シュトリナは顔を上げる。そこにいたのは、ミーアの健康の番人ことタチアナだった。
「ご機嫌よう、タチアナさん」
「ご機嫌麗しゅう。シュトリナさま。ご依頼を受けていた例の病気に関する資料なのですが……」
っと、タチアナはチラリ、とベルたちのほうに目を向けた。興味津々にこちらに目を向けているベル。その手が止まっているのを確認してから、
「ベルちゃん、ちゃんとお勉強続けててね」
そう言いおいて、シュトリナは図書室を後にした。
部屋を出てすぐ、タチアナから資料を渡される。
「やはり、それらしいものはあまり記録に残されていません。貴族の症例にいくつかそれらしいものがあるようですが、ただの食料不足による衰弱死と受け取られかねない症状ですから、庶民の症例はなかなか……」
「やっぱり……」
もともと、露見はしづらい病気ではある。特徴的な症状があるわけでもなし。そもそも、お金がそれほどあるわけでもない庶民が継続的に治療を受け続けるのは難しい。記録が見つからなくても当然と言える。
それは、地方貴族も同じこと。せいぜいが、領内の名のある医師に治療を受けるだけで、やはり、記録は残りづらい。
それでも、ぽつり、ぽつり、と似たような病の記録は残されていた。
大貴族や王族などは、各地から医師を呼び、治療に当たらせることがある。秘匿されることも多いそれらの情報だが、医師たちは、後世の人々を病から救うべく、記録していたのだ。
具体的にどのような治療が行われたのか、その効果はどうであったのか……。参考になるものは少なくないはずだった。
「ん……?」
その時だった。不意に、シュトリナの手が止まる。
それは、ある高名な医師の書いた記録だった。そこに記されていた患者の名前に、シュトリナは小さく口を開く。
「この名前……って、まさか……」
唐突に現れた見覚えのある名前……そして、その名がここに記されていることの意味を瞬時に理解し、シュトリナは言葉を失った。
「もし、これがそうなら……なんて残酷な……」
「どうかされましたか? シュトリナさま」
タチアナの言葉に、首を振り、
「いえ……。それより、このことは、どうか誰にも言わないように」
「……? ええ、わかりましたけど……」
激しく高鳴る動悸、そっと胸を押さえたまま、シュトリナはしばらく、その場に立ちつくした。