第三十六話 ある幸せな少女の聖夜祭
心の支えになる言葉。
長い人生において、そんな言葉に出会えた者は幸せだ。
これは、そんな幸せに巡り合うことができた少女の物語。
その少女に親はなかった。
いや、いたにはいただろうが、少なくとも彼女が物心つく頃にはすでに親はなく。だから彼女は親の顔を知らなかった。
親と言った時に思い出すのは、面倒を見てくれる里親のような大人たちの顔だった。
少女を役立たず、と罵る、大人たちの顔だった。
どこの家でも、子どもとしては扱われなかった。奴隷として、否……役に立たない奴隷として扱われた。
役に立てないのは、仕方のないことだ。
年端もいかぬ少女には、野良仕事は難しく、非力な子どもにできることは少ない。
そのうえ不幸なことに、彼女は手先が不器用だった。任された仕事は、どれも上手くはできなかった。
そして、家族であれば許されるような失敗も、奴隷扱いの彼女は決して許されない。
投げかけられた言葉はいつも冷たく、誰も少女を認めることはない。
罵倒の言葉は、幼い少女の心を酷く傷つけた。
ほどなくして、彼女は捨てられた。
食料を与えて面倒を見るほどの価値を示すことができなかったからだ。
行く当てのなかった彼女は孤児院に引き取られることになったが……その頃にはすっかり、心を閉ざしていた。
だから、彼女は聖夜祭を楽しいと思ったことはなかった。
聖夜祭は家族のお祭り。日頃から一緒に過ごす人たちに感謝を伝える日。
少女は感謝されたことなどなかった。
その命を、誰からも喜ばれたことはなく、その存在の価値を誰からも認められることはなかった。
孤児院の大人たちの言葉も、彼女にはどこか空虚に聞こえた。
「あなたには価値がある」
と言われたけど、そんなのは誰にでもかけられる言葉だ。孤児院のみんなに差別なくかけられた言葉で、親が子にかけるような、唯一無二の愛の言葉ではなかった。
だから、少女にとって聖夜祭は自分とは関係のないお祭りだった。
心から楽しめたことなんか、一度もなかった。
それは、場所をセントノエルに移しても変わることはなかった。
「ミーア姫殿下への感謝を表すためのパーティーを開こう」
そんなことを言われても困る。というか、むしろ怖かった。
――どうしよう……、わたしが手伝ったら、ひめでんかを、おこらせちゃう……。
グズ、役立たず、のろま、へたくそ。
縫物を失敗し、洗い物に必要以上の時間を取られ、野菜の皮むきで指を切るたび、飛んできた罵倒の言葉。大人たちの怖い顔。それが目の前に浮かんでは消えていく。
その都度、少女の手は止まり、なにもできなくなる。
だけど、サボるわけにはいかない。ミーアさまに感謝はないのか! サプライズで喜ばせたいと思わないのか? と言われてしまうかもしれない。似たようなことを言われたことがあったから、なんとか我慢して作業する。
だけど、震える手で作ったクッキーはひどく不格好で、とてもじゃないけど、馬には見えない。むしろ不気味なキノコのように見えなくもないから、並べておいても変じゃないかもしれないけど……。
――でも、まずそう……。どうしよう……ひめでんかに、こんなの出したら……。
心配になって、捨ててほしいと頼む少女だったが、年長組の子たちが大丈夫と言って、そのクッキーをのせてしまった。
「……ミーアお姉さまは、食べ物を無駄にするほうが嫌がると思う」
そんなことを言われてしまっては、もう言い返すことはできなかった。
――こうなったら、ひめでんかに見つかる前に、わたしが食べちゃおう……そうすれば……。
そう、決死の覚悟でパーティーに臨んだというのに……! あろうことか、ケーキを見たミーアは、一番に、少女の作ったクッキーを手に取ってしまったのだ。
――あ、あれ、わたしが作ったクッキー……!
マジマジとそれを眺めるミーアに、少女の心臓はキュッとなった。
出来が悪いって捨てられるんじゃないか? それとも、嘲笑われるかもしれない。こんなこともできないのかって、怒られて、殴られるかも……。
かつて、彼女を引き取った大人たちの顔が次々と浮かぶ。
『こんなゴミが、あなたたちの感謝の表し方なの?』
今にも、ミーアの顔が歪み、意地の悪い言葉が飛んでくる。そう思って、体を縮こまらせる少女だったが……。
「これは、馬かしら……? ふふ、ここの耳の部分にこだわりを感じますわ、ねぇ、アンヌ」
ミーアは、傍らに控えていたメイドに声をかける。メイドの女性はしかつめらしい顔を浮かべて……。
「はい。なかなか……良い感じの耳の形です」
「そうですわね。それに、憎めない顔をしておりますわ。一見するとキノコか馬かわからない、騙し絵風の感じも良いですわね」
言いつつ、ミーアはパクリ、とそれを食べた。モグモグ、ごっくん。それから、にこぉっと満足げな顔をする。
「サクサクでとても美味しいですわ。焼き加減がほど良いですわね」
それから、ミーアはこちらに目を向けてきて……。
「クッキーも、あなたたちが作ってくれたんですの?」
「あ、はい!」
隣の子がピンっと背筋を伸ばして、
「わ、私たちで、作りました。ミーア姫殿下」
「そう。ありがとう。美味しいし、とても楽しいですわ。この馬とキノコの形、わたくしが喜ぶものを選んでくれましたのね。あなたたちの心遣いに感謝いたしますわ」
微笑むミーアと目が合った。瞬間、少女の頬がカッと熱くなる。
褒められたことなんか、ただの一度だってなかったから、どう反応すればいいのか、まったくわからなかった。
「えっ、えと、でも……い、いま食べたの、わたしが作って……か、かた、形が……わたし、その、じょうずに、できなかった、から……」
なぜか、言い訳めいたことをもにょもにょ言っていると……。
「あら……? そうなんですの? でも、今の馬のクッキーはとても可愛らしかったですけど……形で言うなら、わたくしの馬パンもこんな感じでしたし」
あっけらかんと言うミーアに、少女はぶんぶんっと首を振る。
「でも、わた、わたし、今までも、ぜんぶへたくそで……。な、なにもうまくできなくって、やくたたずで、いらない子で……」
それは、少女なりの謙遜の言葉。自身を低くする謙遜の言葉、でも、少女の語彙にあったのは、彼女を貶める罵倒の言葉で……。
初めての称賛への気恥ずかしさと落ち着かなさを鎮めるように、彼女は自分を貶める言葉を続けようとする。
「だから、だから……」
ミーアは、ふむ、っと鼻を鳴らしてから、
「それでしたら、あなた、このクッキーを作って生きていけばいいのではないかしら?」
「え……?」
少女はキョトンと首を傾げる。
「あなたが作って来たクッキーを、わたくしは美味しいと感じましたし、あなたは見た目が気に入らなかったのかもしれませんけど、わたくしは気に入りましたわ。あなたの仕事にわたくしはなんの不満もございませんわ。それでなんの問題もないでしょう?」
「え……? でも……」
「わたくしはあなたに役立たずとは言いませんわ。わたくしに美味しいクッキーを作ってくれるなら、あなたに価値があると言いますし、ありがとう、と感謝をささげてあげますわ。他のなにがうまくできなくとも、このクッキーさえ焼けるのであれば、わたくしのもとで働けばいい。それだけのお話しですわ」
思いもよらぬ言葉に、目をパチパチと瞬かせる少女。
ミーアはゆっくりと立ち上がり、少女の頭に手を置いた。
「けれど……あなたの将来を、今から限定してしまうのはとてももったいないことですわね」
「も、もったいない……?」
「ええ、そうですわ。だって、あなたは、クッキーを作るのが得意だって、知らなかったのでしょう? まぁ、それは仕方のないことですわ。だって、やってみないとわかりませんものね。あなたは、今までやらされたことは上手くできなかったかもしれないけど、他に上手くできることがあるかもしれない、役立たずにはならずに、上手くできることだってたくさんあるはず。練習すれば上手くできることだってあるかもしれませんわ。それを見つけることができなかった大人たちは愚かですし、あなたがこんなに上手くクッキーを焼けるだなんて、知らなかったのでしょう。とても愚かな話ですわ」
言いながら、ミーアはクッキーをサクリともう一枚、二枚、三枚程度食べて……。
「色々試してみて、他に得意なことが見つからなければ、また美味しいクッキーを焼きなさい。そして、わたくしに届けること。そうすれば、わたくしがあなたに感謝とお給金を上げますわ。いざとなったら、どこにも行き場が無かったら、わたくしのもとに来ればいい。そう思っていれば、あなたはきっと大丈夫ですわ。何事にも挑戦できるし、失敗したってへこたれたりなんかしない。あなたには、少なくとも一つ、このミーア・ルーナ・ティアムーンが認めたものがあるのだから」
それから、ミーアはニコリと笑って、
「けれど、わたくしとしては、あなたには、世界で一番美味しいクッキーを作る職人になっていただきたいですわね。クッキーだけでなくケーキも、そのほかいろいろなお菓子も作れるようになったら、もっと良いかもしれませんわ」
「ミーア、ひめでんか……」
少女は、呆然と、美味しそうにケーキとクッキー二種の三角食べを始めたミーアを見つめるのだった。
『あなたは、このクッキーを作って生きていけばいい』
ミーアに言われた言葉を胸に……。
その幸せな少女は、セントノエル特別初等部を卒業した後、聖ミーア学園料理部へ入学。帝国料理長に師事した後、再び、セントノエル島へと帰還を果たすことになる。
とあるパティシエの弟子になるために。それは、帝国の叡智ミーア・ルーナ・ティアムーンがごひいきにしている、あの店で……。
そうして、少女は努力の末に、眠っていた才能を開花させる。
役立たずだと諦めて、足を止めていれば、決して開くことのなかった大輪の花を……。
立体の仔馬形のケーキ「ポニ・ド・セントノエル」、美しいキノコ形のケーキ「シャンピニョン・ド・セントノエル」を始めとした独創的なクッキーケーキを次々に考案した彼女は、女帝ミーアの戴冠パーティーでも、そのケーキ作りの腕前を披露することになった。
帝国料理長ムスタや師匠カタリナと並んで、彼女が作り上げたのは「ミーア・ド・セントノエル」
月光の如き白く美しい肌感を飴細工によって表現し、クリームとバター、フルーツを巧みに飾り付けた、ミーアの等身大のケーキは、あまりにも美しく……。帝国初の女帝の誕生を祝うのに相応しいとの賞賛を受けるのであった。
ちなみに、これも余談だが……。ミーアが……。
――ふぅむ、この子、なんかものすごく苦労してそうですし……。セントノエルに来てもこんな感じだと、こじらせて、蛇になってしまう可能性が高そうですわ。今は軽くポジティブな感じのことを言っておくとして……。そのうえで蛇になる前に、困ったら早めにわたくしのところに避難してきてくれる感じで……。
などと、クッキー&ケーキを養分に脳みそをギュンギュン言わせていたことは、少女の与り知らぬことであった。




