第二十七話 二度と戻ることのない光景を刻んで 2
授業が終わってすぐに、パティは教室を後にした。
なんとなくだけど……特別初等部の教室にいたくなかったから……。
ミーアは、聖夜祭が終わった後、帝都に帰る予定だった。皇女誕生祭を終えた後には、いよいよ静海の森に行くという。もちろん、それですぐに、命の木の実が見つかるとは思わない。
だけど……確実に前進しているという手ごたえがあった。恐らく、遠からず目的のものは見つかるだろう。そして、それを使った薬も、きっとすんなりと完成するのだろう。
それは喜ぶべきことだった。そのはずだった……。
けれど、課題がクリアされていくということは、パティがこの時代ですべきことがなくなっていくことでもある。
これから先……ミーアの成すべきことは、まだまだたくさん残っている。その仲間たちの旅路は続いていく。
でも……パティの役割は、もうそこにはないのだ。
――私が戦うべき場所は……私の居場所は、過去だから……。
ハンネスの病を治し、蛇の呪縛から解放されたところから、パティの戦いは始まる。
それは、たった一人の孤独な戦いだ。
失敗のできない、負けられない戦いだ。
だけど、それを思う時、パティの心を占めるのは緊張でも恐れでもなく……寂しさだった。
――過去に戻ったら、もう二度とみんなに会うことはない。ミーアお姉さまにも、ヤナにも……キリルにも。カロン、ローロ、特別初等部のみんなにも……。会えない。もう、二度と……。
歴史が、それを語っている。
皇妃、パトリシア・ルーナ・ティアムーンは、火災に巻き込まれてその生涯を終える。今の時代までは、生きることはできない。
それは、わかっていたことだ。
受け入れていたことだ。
それまでに成すべきことをすべて成す……それこそが、自身に与えられた役割だとパティは知っている。逃れるつもりはない。
……だけど……ただ、寂しさだけは拭いようがなかった。
パライナ祭に向けて盛り上がる教室。
春から加わった新しい子どもたちもすっかりと慣れて、特別初等部の教室の雰囲気はとても良かった。
温かくて幸せで、居心地が良い空間は、けれど、今のパティには苦しい場所だった。
だから、逃げるようにして、教室を後にしたのだ。
ヤナがなにか言いたげな顔をしているのを、気付かないふりをして。
中庭までやってきたところで、びゅうっと吹いてくる北風に、思わず立ちすくむ。
冬の、刺すように冷たい風。
ただ一人、その寒さの中で震えることが、まるで、これから先に待つ未来のように感じられて……思わず……。
「あら……? パティ、こんなところでなにを?」
そんなパティに話しかけてくる者がいた。
「え……? ぁ……」
顔を上げると彼女の孫娘、ミーアがきょとん、と小首を傾げていた。
「ふぅむ……小腹が空きましたわね。やはり、授業で昼食分を消費しすぎたのではないかしら……。ここは三時のオヤツの前に軽くケーキなど……」
「ミーアさま……」
アンヌが澄まし顔で首を振る。忠義のメイドに窘められ、ミーア、ぐむっと唸る。
セントノエルに戻り、タチアナの指導を受けたらしいアンヌは、以前より非常に厳しくなっていた。夕食前には三時のお茶菓子しか食べてはいけないし、紅茶に入れる砂糖は一個半まで。なんと、ジャムと紅茶を混ぜた紅茶入りジャムを飲むのも禁止になってしまったのだ!
……当たり前のことが当たり前に指摘する、忠義のメイドアンヌなのである。
それはさておき、ミーアは何げなく中庭にやってきていた。
道すがら、着々と進む聖夜祭の準備を横目に、ふむ、と唸る。
「今年は聖夜祭、出られそうですわね。レアさんとリオネルさんがラフィーナさまに替わって儀式に臨むと言ってましたけど……。ふふふ、今から楽しみですわね……おや?」
その時だった。ミーアの視界に、ポツンと立ち尽くすパティの姿が入ってきたのだ。
「あら、パティ、こんなところでなにを?」
話しかけ、辺りをキョロキョロと確認してから、
「ヤナたちは、一緒ではありませんのね?」
問いかければ、パティは無言で、コクリ、と頷く。ミーアはその様子をジィっと見つめて、
「なにか、ありましたの?」
「……別に、なんでもない」
首を振るパティに、ミーアは苦笑いを浮かべる。
「なんでもないって顔をしてませんわ。ふむ……。そうですわね。なにか、甘い物でも食べながら……」
チラリとアンヌのほうに目を向けて……、
「その……早めの三時のオヤツと言うことであれば……」
言い訳のように付け足す。っと、アンヌは、ふぅっと小さく息を吐いてから、笑みを浮かべた。
「もう、仕方ありませんね……。お夕食を食べられないほど食べるのは無しですよ」
「ふっふっふ、もちろんですわ!」
ミーアは上機嫌に笑うと、パティの手を取った。
「せっかくですし、少し学園の外で甘い物でも食べてみましょうか」
そうして連れて行ったのは、セントノエル島スイーツ界隈において、ミーアがイチオシしている店、カタリナ工房だった。
「いらっしゃいませ、あ、ミーア姫殿下、ようこそいらっしゃいました」
今日は店主の妹も一緒に働いていたらしく、元気のいい挨拶が飛んできた。
出迎えてくれた姉妹に笑顔を振りまきつつも、ミーアは小声で聞いてみる。
「カタリナさん、個室って使えますかしら?」
「もちろんです。すぐにご用意しますね」
「お願いいたしますわ。あっ、あと、注文は店長のお勧めスイーツで」
そうして、三人は個室に案内された。ここならば、気兼ねなくお話ができるだろう、と満足げに頷いていると、間を置かずに注文品が運ばれてきた。
「ほう、これは、楽しい物が出てきましたわね」
運ばれてきたのは、木の形を模したケーキだった!
「こちら、この冬お勧めのケーキで、ブッシュ・ド・セントノエルといいます」
説明しつつ、ケーキがカットされる。現れたのは、クリームで表現された見事な年輪だ。
表面の固めのバタークリームとは違う、中のフワフワクリームに、ミーアはゴクリ、と喉を鳴らす。
お皿に載せられた丸いケーキを見て、思わず歓声をあげつつ、ミーアはパティに目をやった。
「さ、パティ。まずは食べましょう。甘い物を食べれば、大抵の悩みなど、吹き飛んでしまうものですし。その後で、何があったのか聞きたいですわ」
パティは、それをジッと見下ろしてから……。おもむろに、フォークでケーキを切った。
一口大(パティ比)にしたケーキを小さな口でパクリ……。それから、もぐもぐ、ごくり、とやってから、そっと目を閉じる。
それから、何も言わずにパクパク、美味しいケーキを食べて、食べて、食べ尽くしてから、小さく寂しげな吐息を吐く。
その様子を見て、どうやら、体調不良とか食欲不振とかじゃなさそうだぞぅ? っと察しつつ、ミーアも負けじとケーキを一口大(ミーア比)に切り、パクパク、ごくり。
素早く完食して、紅茶で口の中をすすいでから、再び、パティの顔を見つめる。
「それで、どうかなさいましたの? パティ。いやに元気がなかったように見えましたけど……」
「……別に、なんでもない」
パティは、再び首を振り、唇をきゅっと噛みしめる。
「ただ……美味しいケーキが、もうすぐ食べられなくなることが、少しだけ残念に思っただけ……」
その言葉に、ミーアはハッと目を見開いた。パティが、なぜ暗い顔をしていたのか……思わずこぼれたその言葉の、裏にある感情に気付いたからだ。
――ケーキの美味しさの半分は、誰と食べるかによって決まるもの。どれだけ美味しいケーキでも一人で食べていては味気ないもの……いえ、でも、このブッシュ・ド・セントノエルや、野菜ケーキは例外かしら……一人で食べても美味しいケーキは美味しいものだったような?
一瞬、ミーアの中で数多の美味しいケーキたちが主張を始めそうになるも、小さく首を振って軌道修正。
――いえ、そうではなく……誰と食べるかが重要で……。だから、パティはもうすぐ過去に帰ることを憂いているのですわね。この時代のお友だちと、もう会えなくなることを寂しく思っている、と。
今が幸せであればあるほどに、その喪失は辛いもの。ミーアにもそれはよくわかる。でも、だからこそ……。
「パティ、これは、あくまでもわたくしの経験から、なのですけど……今しか得られない幸せを意識してしっかりと享受したうえで、その喪失に直面した時と、それを意識せず、享受しようともせず自分から遠ざけたうえで、喪失後に得られたはずの幸せを惜しむのとならば、わたくしは前者を選びますわ」
ミーアの言葉に、パティが小さく顔を上げる。答えを求めるかのように揺れるその瞳に、ミーアは静かに言葉を続ける。
「もしも、別れが来るとわかっているのだとしたら、それが永遠の別れであったとしても、いえ、永遠の別れであればこそ、別れの瞬間に、もっとああしておけばよかった、と後悔しないようにしておくべきですわ」
思い出すのは、革命の時間軸。
父が、処刑されたとの報を聞いた時のこと。
唐突に、永遠の別れを突きつけられたミーアは、思ったのだ。もっとああしておけばよかった、と……。そんなことになるなんて、考えてもいなかったのだ。
人は死ぬ。どのような形であれ、別れの時は来る。
そんな当たり前のことを意識していなくて、だから、ちょっとの努力で示せたはずの優しさや愛情を、まるで示してこなかったことを後悔した。
「幸せであればあるほど、それを失った時には辛いもの。されど、それは今この瞬間に幸せになれるのに、不幸でい続ける理由にはならない。お友だちと良い時間を過ごせば過ごすほど、それを失うのは寂しいものですわ。されど、それはお友だちとかけがえのない時間を過ごさない理由にはなりませんわ」
目を逸らさずに、真っ直ぐに視線を向けて告げる。
「ヤナと……みんなと精一杯、今を楽しむべきですわ、パティ。過去に戻らなければならないとしても……いえ、だからこそ……あなたは、今という時をお友だちと楽しまなければなりませんわ。それが得られる内に……。そうじゃないと、いずれ別れの時が来たら、絶対に後悔しますわ」
ミーアは、そこで優しい笑みを浮かべる。
「それにまぁ……一度戻ってしまえば二度と会えないとも限りませんわよ。ベルなんか、一回死んでしまって、それからもう一度、過去に飛んできたわけですし……。パティに二度目がないとも限らないでしょう? だから……」
そっと立ち上がり、パティに手を伸ばし……。
「だから……そのような顔をするものではありませんわ、パティ」
いつの間にか濡れていた、その幼い頬を優しくハンカチで拭いてやる。
「まだまだ、帰るまでには時間があると思いますわ。少なくとも、聖夜祭には出られるのではないかしら。セントノエルの聖夜祭は一見の価値がございますわ。ヤナたちも去年は参加させられませんでしたから、一緒に楽しむと良いですわ」
ミーアの言葉に、パティは無言で頷くのだった。
今週はミーア分、少し薄めです。