第百三十七話 来る!(ミーア姫が……)
セニアの中心街、比較的、裕福な者たちが住まう地区にその館は建っていた。かつて、財を築いた商人が住んでいたというその館は広く、調度品も見事なものだった。
その地下室に、宰相ダサエフ・ドノヴァンは捕らえられていた。
境遇としては、さほど悪くはなかった。
監禁している者たちは、ダサエフが高齢であるということにしっかりと配慮を見せていた。だからといってずっと捕まっていたいかと言われると、もちろんそんなことはないのだが……。
「なぁ、そろそろオレらに協力する気になんねぇか?」
部屋に入ってきた軽薄そうな男に鋭い視線を向けてから、ダサエフは無言で首を振る。
「わっかんねぇな。あんたには家族もないし親族もいない。民衆のためを思えば、今こそ立つ時じゃねーの?」
「わしは、国王陛下が決定的な間違いを犯したとは思うておらぬよ。わが諫言をお聞き入れくださるまで幾度も言葉を尽くすのみ。剣によって陛下を討てば混乱に拍車がかかり、民はいっそう苦しもう」
「あんたが代わりに上に立てばいいだろう。やるべきことが見えてんなら、そのほうが早い。 興味がないわけでもねぇんだろ?」
国の頂点に立て……、それは貴族や政治家ならば、誰しも一度は憧れるものだ。
けれど、ダサエフは即座に首を振る。
「そもそも、まともに名を名乗らぬ者の言葉に従えというつもりかね?」
「あん? そうだったか? ちゃんと最初に名乗ったと思ったが……オレの名は」
「ジェム……だったな」
それは、この地域では、最もありふれた名だった。
名を名乗らぬ者を「名無しのジェム」と言ったりするほどにありふれた……。
ゆえに、ダサエフは男が本名を名乗っているとは思えなかった。
「消えよ。何度来ても無駄なこと、怪しげな男の誘惑に乗るほど、わしは若くはない」
「まぁ、いいけどよ。しかし、いつまでも、優しくしてもらえるとは思わんことだぜ?」
ジェムは、肩をすくめて部屋を後にした。
「ああ、くそ忌々しい……。あのじいさん、いい加減、ムカついてきたぜ」
廊下に出ると、ジェムは荒々しい口調でつぶやいた。
「本当なら、ぶっ殺してやれるところなんだが……。くそ、グレアムの野郎、とっとと使える奴を見つけて来いよ……」
風鴉で受けた戦闘訓練をもってすれば、ダサエフを殺すのは容易いことだった。もともとの予定ではそうする予定だったのだ。
けれど、それができずにいるのには、ある事情があった。
ティアムーン帝国におけるティオーナ・ルドルフォンのような存在が、ダサエフ・ドノヴァンにはいなかったのだ。
彼には子がなく、妻も亡くなって久しい。
親族もみな年老いて、国王に従属する者のみ。反逆など思いもよらない者たちばかりで、それ故に、ダサエフの死によって、復讐の大義名分を上手く活用できる者を見出せずにいるのだ。
ランベールは確かに口が上手い。それに加えジェムの指導により、ある程度ならば相手の心を読み取れるようにもなっている。
人間を熱狂させることなど、容易いこと。
その者の望んでいる言葉を読み取り、それに自分が望む方向性をつけてやるだけでよい。耳心地の良い言葉にくるんで、相手を狂わせる毒を混ぜ込めばいい。
現に、彼はその方法で幾人もの人間を操っている。
レムノ王国地下革命派の連中も、サンクランドの風鴉の者たちも。
けれど……、革命を成功させるためにはそれでは不足だ。暴徒の熱狂をまとめ上げる核としては不足なのだ。
「本来なら今頃は、帝国の混乱を焚きつけてりゃあいいころだったのに、まったく厄介なことだぜ……」
すべては帝国の叡智のせい……。あらゆることが準備不足、時間が圧倒的に足りなかった。
仕方なく彼は計画を変更した。用意された代替のシナリオはこうだ。
まず、ランベール率いる革命軍が宰相ダサエフ・ドノヴァンを救出。助け出されたドノヴァン卿は、そのまま革命軍に合流。民を率いて反政府活動を展開すると同時に、王政府の非を徹底的に弾劾してもらう。
ゆえに、この町、セニアに監禁されていたのだ。説得さえ上手くいっていれば修正は可能と判断していたのだが……。
「あのバカ野郎が……」
説得が終わるまで蜂起を見合わせていたというのに、ランベールは民を扇動して、騒乱を起こしてしまった。
口が上手く、民を操るのに長けているだけに、勝手に動かれては非常に厄介だ。
「やっぱり人選を誤ってやがるな。キープのつもりでとっておいただけだが。どうにも時間が足りねぇのがたまんねぇぜ……」
ジェムは、歪んだ笑みを浮かべながら、懐から一冊の本を取り出した。
黒塗りの表紙を持ったその本は、どこか気味の悪い空気を放っているように見えた。
「帝国の叡智……、ミーア・ルーナ・ティアムーン。かのラフィーナ・オルカ・ヴェールガの友人だというが……、よもやあの女の密命を帯びた者じゃねぇだろうな……」
忌々し気につぶやき、本の表紙をなぞる。
と、そこに、うっすらと何かが浮かび上がる。細いひものようなそれは不格好ながらヘビのように見えた。
「帝国の崩壊を皮切りに、あらゆる国家の連鎖的な崩壊……。秩序の破壊によって訪れる混沌。それこそが我らの悲願……邪魔はさせねぇ」
どうやって、ダサエフ・ドノヴァンを懐柔しようか……、思案する彼は知らなかった。
計画の完全崩壊が、少女の姿をしてすぐそばまでやってきていることを。
ミーアが≪来る≫まで、あと数分。