第二十一話 あえて疑問を呈したいのである
――ふぅむ……ベルが夢中になるだけあって、美味しいですわ。ホットココア。
言うべきことを言ったので、ミーアはあまぁいココアで一息吐く。
――しかし、いざ甘い飲み物を飲んでしまうと、固形物も食べたくなるのが人情というもの。ケーキかクッキーか……。しかし、甘い食べ物を食べてしまうと、今度はしょっぱいものも食べたくなるのも、また、否定しがたき人情というもの……。
チラ、とミーアは窓の外に目をやる。
日は、いつの間にか傾きつつあった。今、あまりたくさん食べてしまうと、夕食に差し障りがあるかもしれない。ここは、ケーキ&クッキーか、塩気のあるキッシュなどにするべきか、どちらかに絞るべきかもしれない。が……。
「いえ、どちらも捨てるべきでは、ありませんわね」
ミーアは、食べ物を捨てることが嫌いだ。大嫌いだ。
であるならば、当然のこと、どちらかを食べる選択肢を『捨てる』こともまた嫌いなのは、至極当然のことと言えるだろう。
……そうだろうか?
そうして、ミーアは自らに問いかける。夕食時の腹具合が、今、食べたい物を食べない理由になり得るものだろうか?
ミーアは、あえて言いたい。答えは否である、と。
どちらかを我慢するなど、あり得ぬこと。ただでさえ、頭を使い、エネルギーを消費しているのだ。であれば、今、両方を食べてもいいのではないか?
……本当に? そうだろうか?
ミーアが、実に深い葛藤に直面していた、その時だった。
「ミーア、君が言いたいのは、こういうことではないのかな?」
アベルの声が、聞こえた。
ん? っと見れば……どうやら、話が進んでいたらしい。そのうえ、割りと真面目な話だったらしく、アベルの表情は真剣そのものだ。
ミーア、ちょっぴり困った顔をしつつ、
「え……ええ。まぁ……だっ、大体、そんな感じですわ」
言いつつ、脳みそを高速回転させ始める。幸いにして、エネルギーは足りている。ホットココアは非常に効率の良いエネルギー源なのだ。
アベルがなにを言っていたのか、検証。ざっくり何を言っていたのか、思い出しつつ……。
――え、ええっと……確かお父上や国の重臣たちを勝手に敵にしないようにとか、そんなことを言っていたかしら? 女性の地位向上のために、既得権益層を敵として排除するなとか……そんな感じ……? ふむ、とてもまっとうなことを言ってますわ! さすがはアベルですわね。
とりあえず、その方向で押していけばいいか? と考え、ミーアは、さすがに、もうホットココアを飲み終えたであろうベルのほうにチラリと目を向ける……っとベルは……!
――あっ! ベル、カップの底に残ったお砂糖に気を取られてますわ!
なんと、ベルは、熱心な視線をカップの底に送っていた。それを名残惜しそうに見つめていた! スプーンで軽くつついた……かと思うと、すっと手を挙げ、アンヌを呼んで……。
――あっ! あれは、上から牛乳を注いでおかわりにするつもりですわね! ぐぬぬ、実に意地汚い! とても皇女とは思えませんわ!
などと、怒り心頭のミーアであるが……。
ところで、お気づきいただけただろうか……?
本来、大帝国の皇女であれば、そもそも、カップの底に残ったお砂糖とココアの粉をおかわりに再利用しよう、などと思いつきもしないはず……。それなのに、なぜ、ベルがそんなことをしようとしていると看破できたのか……。
――って、そんなことはどうでもよくって! それより、日記帳のチェックを! ベル、チェック! チェック!!
心の中で念じるも……無情にもその声は届かない。
うぐぐ、っと一つ唸ってから、仕方なくミーアは、カンニングペーパーなしに問題に挑む!
――とりあえずは、アベルが言っていたことに乗っかって、穏当な感じで話をまとめれば大丈夫なはずですわ。たぶん……きっと!
ミーアは心の中で頷いてから、クラリッサに目を向ける。
「わたくしが言いたかったことは、まさにその点ですわ」
腕組みし、しかつめらしい顔を作ってから、ミーアは続ける。
「虐げられた者は、復讐したくなるもの。誰だって殴られれば、蹴り返したくなりますものね。そうしてすっきりしたいものですわ」
理解を示すように、うんうん、っと頷いてみせてから、
「けれど、それでは己が正しさを投げ捨てることになりますわ」
「正しさを捨てるとは、どういう意味でしょうか……?」
「知れたことですわ。我らの正しさは、なにゆえに保証されるか? 言うまでもなく、それは神聖典によることですわ。神聖典には人はこうあるべし、という定めがありますわ」
そうして、ミーアは瞳を閉じて、そらんじてみせた。
「妻は夫を愛し敬うべし。夫は妻を愛し慈しみ、その命を懸けて守るべし、と」
ミーアは神聖典のその箇所を、一字一句間違うことなく、そらんじることができる。
なぜか……? もちろん、ミーアが敬虔な人だからである……などということはもちろんない。
単純に、結婚式でよく読まれる箇所だからだ。
恋愛小説の、クライマックスのシーンでたびたび言及される言葉だからだ!
『いつか、わたくしも、アベルと……うふふ』
なぁんて! 妄想をたくましくしているからだ!
それゆえ、帝国の恋愛脳ミーアは、その教えに関してはラフィーナ並に詳しいのだ!
「それは、男女間のある種の契約ですわ。なぜレムノ王国の殿方が悪と言えるのか? なぜ、国王陛下の在り方が間違いだと言えるのか? それは、その契約が不履行状態だから。愛と敬意を受けながら、妻を愛することもなく、慈しみ、守ることもしていないから」
男女を一対として人間を捉える神聖典において、両者の間に優劣はない。
差異はあっても両者は対等な存在であり、双方向に利益をもたらす存在として描かれる。片方が片方を搾取する関係は、ヴェールガの支持する人間観ではない。
「では、わたくしたちがすべきことは、なにか? それは、契約不履行の状態を正すことですわ。決して、不平等に、一方的に利益を享受する者たちに、痛い目を見せることでありませんわ。そうすることは自分自身を、契約不履行という、悪の状態の中に置くことになりますわ。悪に対し悪をもって抗しては、自らを悪に染め、正しさを手放すことになる」
そっと胸に手を当てて、まるで聖女ラフィーナのような顔で、ミーアは続ける。
「あるいは、民草はそれで良いのかもしれませんけれど。権威を与えられたわたくしたちは、残念ながらそれではダメですわ。相手を殴り倒した後で、どうなるのか? 殴り倒すことが、この国のより良い未来のためになるのか。民の安寧を守ることになるのか。考える必要がございますわ」
「未来のため……」
「そうですわ。視野を広げるべき、とアベルは言いましたわね。クラリッサお義姉さまは、虐げられた人たちのことだけしか、見ていないのではないかしら?」
言葉を続けつつ、ミーアは、自らの言葉の欺瞞に気付いていた。
――先ほど、女王烏賊の喩えを出してしまいましたけど、あれを上手く解釈しないと、問題がありますわね。
なにしろ、国王を始めとした既得権益層を女王烏賊に喩えて、気付かれないようにじっくりコトコト煮込んじまえ! とミーアは言ったのだ。これは、アベルの主張とは相反するもの。なんとか誤魔化さなければならない。
――まぁ、普通に流してしまってもよろしいですけど、ここは……。
一つ頷き、ミーアはあえてその喩えに触れることにする。
「先ほど、わたくしは女王烏賊の話をしましたわね……。まさにそう言うことですわ。調理した女王烏賊は美味しく食べ、わたくしの身体の血肉となって、共に生きていく。それと、同じことですわ。敵だから、と……唾棄すべき者として切り捨てて、打ち捨てるのではなく、味方として吸収して、より良い未来を築いていく。国の一部として、機能していなかったものを、健全に機能するようにしていく。殿方は敵ではありませんわ。彼らもまたレムノ王国の民なのですわ」
それから、あくまでも軽挙に出ないように、釘を刺す意味で付け足す。
「レムノ国王陛下もまた、敵ではありませんわ。あの方は、クラリッサお義姉さまの、お父上なのですから」
間違っても、剣を振りかぶって説得とかしないようにね……? 振りかぶるだけならまだしも、絶対、振り下ろしたりしたら駄目よ? と強く主張したいミーアである。
「レムノ王国のより良い未来……」
クラリッサのつぶやきに、ミーアは頷く。
「神聖典によれば、夫と妻とは元より一つのもの。男にしろ女にしろ、どちらか単独であれば、百年かそこらですべて死に絶える。人間とはそのようなものですわ。であれば、人の繁栄のためには両者が手を携える必要がある。国の繁栄もまたしかりではないかしら?」
それから、ちょっぴり気恥ずかしそうな笑みを浮かべて、
「少なくとも、わたくしは、アベルと手を携えて描き出す未来をこそ求めておりますわ」
そんなことを言う、帝国の恋愛脳ミーアなのであった。