第二十話 知らず絡めとられて
「なるほど……敵に攻撃されていることを気付かせないように攻撃する。それが、帝国の叡智の戦い方……」
その恐るべき戦略眼に、ごくり、っと喉を鳴らすクラリッサ。そうしてミーアのほうに目を向ければ、ミーアは「言うべきことは言った!」みたいな表情で、紅茶のカップを持っていた。
こくり、っと喉を鳴らして飲んでから、ほふーっとため息を吐く。
「効率的に敵を倒そうとするなら、知恵を使わなければならない。レムノ王国に長く根付いた強力な敵と戦うためには、私も賢くならなければならない……。そういうことでしょうか?」
戦慄を覚えつつも、そう問いかけるクラリッサ。されど、ミーアの口からこぼれ落ちたのは……意味のわからない言葉だった。
「どちらも……捨てるべきではありませんわね」
答えにならない言葉に、クラリッサは思わず小首を傾げる。
「え……っ? あの、ミーア姫殿下? それはどういう……?」
どちらも捨てるべきではない、とは、どういう意味か? どちらもとは何と何か?
知恵だけでなく、時に蛮勇も発揮しなければならない、とか、そういうことだろうか?
とか……一番槍の誉れ的に思考が飛躍しかけたまさにその時だった!
「おわかりになりませんか、姉上?」
はたで見ていたアベルが、唐突に口を開いた。
「アベル……どういうことでしょうか?」
不思議そうに眉を顰めるクラリッサに、アベルは難しい顔で続ける。
「ミーアは、姉上の視野の狭さを指摘しているのではありませんか?」
「視野の狭さ……?」
アベルは深々と頷き、何事か考えるように、口元に手をやってから……。
「姉上にお聞きしたいのですが……敵とは、誰のことでしょうか?」
おもむろに、そう問いかけてきた。
「……え?」
一瞬、答えに窮する。畳みかけるように、アベルが続けた。
「敵、と、クラリッサお姉さまは言いました。では、クラリッサお姉さまにとっての敵とは、いったい誰のことですか?」
「それは……」
無意識に言っていた「敵」という言葉……。それは、クラリッサの中の隠しきれない認識だった。
「父上のことでしょうか? ゲインお兄さまのことでしょうか? 国の重鎮たち、メイドを虐げる文官、夫人に手を挙げる貴族でしょうか?」
こちらを見つめる目、その瞳に宿る光はあくまでも穏やかで……けれど、目を逸らせない強さがあった。
「妻を見下す夫でしょうか? 妹を虐げる兄でしょうか? 姉を軽んじる弟でしょうか? 母を侮蔑する息子でしょうか……? 姉上は、なにを敵とし、それを打倒することで、なにを成し遂げようとされているのでしょうか? 姉上が、敵としようとしているものは、本当に……敵なのでしょうか?」
優しい弟の指摘が、鋭くクラリッサを突き刺す。
「クラリッサお姉さまが目指しているものは、人が人を虐げるという悪しき枠組みの中で、攻守を入れ替えるだけのものではないでしょうか?」
思わず息を呑むクラリッサであった。
――本当に恐ろしい。
静かに問いかけを重ねるごとに、アベルは思っていた。
――本当に、恐るべきものだな……蛇というものは……。
改めて、そう実感する。
クラリッサの示した価値観、それは、蛇の不滅性を維持する考え方そのものだった。
踏みつけにされた弱者が『地を這うモノの書』によって、自分たちを虐げる秩序を破壊する。そして、今度は自分たちが踏みつける者として、踏みつけてきた強者から逆に搾取する秩序を再構築する。
弱者と強者は入れ替わり、されど、誰かが誰かを踏みつけにするという枠組み自体は変わらないから、弱者に寄生する蛇は決して消えることがない。
蛇が生き続ける枠組みの中で、幾度も秩序は破壊され、無為な死が積みあがり、世界は混沌へと堕ちていく。
――蛇は不滅、か。よく言ったものだ……。
それはまるで、姉、ヴァレンティナの言葉の正しさを、目の前で見せつけられるかのようだった。そして、それゆえに、アベルは止めなければならなかった。
――我らがすべきことは、その枠組みを正すことだ。どちらも捨てるべきではない。すなわち、男であれ、女であれ、どちらかを敵として打ち負かし、どちらかを新たな勝者とするようなことをすべきではない、と……。
それから、アベルは断固とした口調で言った。
「戦うべき敵をしっかりと見定めるべきです。そうしなければ、戦うべきではない者たちまで、勝手に敵と見做す愚を犯すことになる」
それから、アベルはミーアのほうに目を向けた。
「ミーア、君が言いたいのは、こういうことではないのかな?」
そう尋ねれば、ミーアは……ちょっぴり困ったような顔で微笑んで……。
「え……ええ。まぁ、大体、そんな感じですわ」
その答えに、アベルは若干の申し訳なさを覚える。
――たぶん、クラリッサお姉さまに自分で気付いてもらいたかったんだろうな。
ついつい口を挟んでしまったことを、後悔するアベルである。けれど、黙っていることはできなかった。
――クラリッサお姉さままで、蛇にからめとられるわけにはいかない。ヴァレンティナお姉さまと同じ轍を踏ませるわけにはいかないんだ。
姉が、再び敵として立ち塞がる。そのような事態だけは避けたいアベルであった。