第十六話 ミーア姫、あられもない声をあげる
「ああ、なんだか、ここに来ると、帰って来たという感じがいたしますわ」
久しぶりのセントノエルの大浴場を見て、ミーアは感慨深げなため息を吐いた。
白月宮殿にも、ミーアの願いを受けて浴場が建設されはしたものの、ミーアが広い浴場と言って一番に思いつくのは、このセントノエルの大浴場だった。
整然と石が敷き詰められた広々とした室内、天井から降り注ぐ柔らかな光を受けて、澄んだ湯がキラキラと輝いていた。
モクモクとした湯気に包まれたその空間は、ミーアにはまるで天国のように見えた。
早速、アンヌに髪を洗ってもらう。っと、後ろに回っていたアンヌが、なにかに気付いたように声を上げた。
「あれ、ミーアさま、少し御髪が伸びて来られたのではありませんか?」
「んー? ああ、そうですわねー。そういえば、しばらく切っている余裕がありませんでしたから、そのまま放っておきましたけど、いつもよりは伸びてきているかしら……」
鏡に映る白金色の髪は、ミーアの背中の辺りまでになっていた。
ふと……その長さに、ミーアは嫌な物を思い出す。かつて、地下牢に堕とされた時と、同じぐらいの長さになってきているような……。
「御髪、このまま伸ばされますか?」
いつもの馬シャンで、しゃこしゃこ洗ってもらいながら、ミーアは、ギュッと目を閉じたまま考える。
「そうですわね……どうしようかしら……?」
ミーア的には、正直なところ、長い髪にあまり良い印象はない。
――地下牢に入れられたりすると、面倒なんですわよね、髪って……。逃げなきゃいけない時も捕まりやすそうですし……。
これまでの経験上、どうしてもそんなことを考えてしまうのである。が……。
「でも、そうですわね……。もう少し伸ばしてみても、良いのかもしれませんわね。こうして、アンヌが手入れしてくれてますし……」
アベルから紹介された洗髪薬を使って以来、ミーアの髪はずっと好評を維持していた。帝国の叡智の髪は名馬の毛のように美しい、と最高の評価を下す騎馬王国を筆頭に、各国で非常に評判になっているのだ。
――セントノエルを卒業して、アベルと結婚する段になれば、ウエディングドレスなども着ることになるでしょうし……。その時には、長く美しい髪をしていたほうが、アベルには喜んでもらえるのではないかしら……?
なんと! ミーア、ここにきて唐突に乙女心を発揮した! 唐突に、なんの脈絡もなく!
……しかし、否! それは、別に唐突ではないのだ。なぜなら、ミーアは乙女だから! そう、ミーアは乙女、妙齢のご令嬢なのだ!
肌艶とか、髪のお手入れとか、爪のお手入れとかに関心があるご令嬢なのだ。
肌が最近ちょっぴりですけどFNYってきたような……とか、ケーキを食べるのにあまり髪が長いとクリームがついてしまいそうですし、ほどほどの長さで……とか、調理の邪魔になりますし、爪は常に短めにしておくのが、料理の熟練者たる者の当然の振る舞いですわ……とか!
少々、乙女とは程遠い、一部苦労人泣かせな言動が多いミーアであるが、その性根は間違いなく乙女なのだ!
……乙女なのだ! 本当に!
そうして、旅の汗をすっかり洗い流したミーアは、ちゃちゃっと浴槽に体を沈め、
「おーふ……」
じんわりと広がってくる湯の熱に、なんともおっさん臭い声を上げた。
……それでも……乙女なのだ。性根の部分は……芯の部分は、乙女なのだ、きっと。
振る舞い的にはアレなところはあっても、中身は乙女に違いないのだ。た、たぶん。
――あー、なんか、こうしてお風呂に浸かっていると、パライナ祭とかどうでもよくなってきますわ。
頭をこてん、と湯船の縁につけて、ミーアは天井を見上げた。
――世界会議とか、レムノ王国のこととか、なんとか叡智君主論とか、気にしてもどうにもならないことは、とりあえず、流れに任せてしまうのが一番ですわ。
そう、ここ最近の自分は、少しらしさを失っていたのかもしれない、とミーアは反省する。
「すべては、こうして、お湯に漂うがごとく……ですわね。頑張ってもどうにもならないことはいくらでもあるわけですし……。ふむ、大切なのは馬に乗るがごとく、流れに身を任せること。わたくしは、乗り方を忘れていたようですわ」
馬に身を委ねるがごとく、海の流れに身を委ねるがごとく。常に、流れに身を任せつつ、それを乗り切ること。それこそが、ミーア式君主論なのだ。
ミーアは、それから、アンヌのほうに目を向けた。彼女はちょうど、自らの身体を洗い終えて、こちらに向かってくるところだった。
「アンヌ、ありがとう。頭がすごくスッキリしましたわ」
「それはなによりです、ミーアさま」
そうして、アンヌが隣に入ってきた。
あの日、ラフィーナと大浴場で遭遇した日以来、アンヌは遠慮がちながらも、こうして湯船を共にするようになっていた。
あの地下牢でどれほど望んでもできなかったことが、当たり前の日々になっていく。
幸せに対して感謝を忘れることはよくない。されど『幸せ』を意識できないぐらい当たり前の日常としてしまうこと、それをできるだけ長く続くよう、大切な人々に広げていくのが、ミーア式幸福論である。
「ふーむ、その対象者がずいぶん増えてしまったから、なかなか大変なことのようにも思いますけど……ともあれ、頑張りますわよ……明日からは!」
原点回帰しつつ、そんなことを思うミーアであった。
ちなみにミーアの決意とは裏腹に、ミーアが再び頑張り出すのは、一週間後からだった。
その日、ダサエフ・ドノヴァンとの対談を終えたクラリッサが、訪ねてきたのだ。
部屋に来るなり、しょんぼーりっと沈んだ顔をするクラリッサに、ミーアは小さく首を傾げた。
「ご機嫌よう、クラリッサお義姉さま……。そのお顔から察するに、もしや、ドノヴァン宰相の件、上手くいきませんでしたかしら?」
ミーアの言葉に、こくり、と小さく頷いて……。
「申しわけありません。私の力不足で……」
「そんなことはありませんわ。なにがあったのか、是非お聞かせいただきたいですけど……」
ミーアは、ふと思う。
――とりあえず、ベルにも来て、話を聞いてもらうべきかしら?
ベル……というか、彼女の持っている日記帳に用があるのだが……。
しばし考えた末、ミーアは言った。
「では、とりあえず、お茶でも飲みながら、聞かせていただきますわ。アンヌ、お茶とお茶菓子、ついでにベルを呼んできていただけないかしら?」
「かしこまりました、ミーアさま!」
ミーアの要請を受けて、アンヌが部屋を飛び出していった。
そうして、お茶とベルの到着を待ってから、クラリッサは話し出した。