第十三話 ヴェールガの母娘
一夜明け、ミーアたちが旅立った翌日のこと……。
自室の椅子に腰かけて、はぁあ、っと儚げなため息をこぼすラフィーナに、母、ルーツィエが話しかけてきた。
「ねぇ、ラフィーナ」
「……はい、なんでしょうか、お母さま」
ハッとした表情で顔を上げ、それから、取り繕ったように笑みを浮かべる娘に、ルーツィエは優しく語りかける。
「ミーアさんは、とてもよい方みたいですね」
「ええ、まさに……」
おわかりいただけましたか!! っとばかりに、ラフィーナはちょっぴり勢いよく、ぶんぶん頷く。そんな娘の様子に、ルーツィエは温かな笑みを浮かべたまま……。
「よい友情を育んでいるみたいですね。それに、他の方たちとも、良い関係を結んでいる。本当にセントノエルでの日々は、あなたにとって大きなものだったのですね」
「はい……。あの方たちと共に学生生活を過ごせたこと、心から感謝しています」
ルーツィエは静かにラフィーナの様子を見つめていたが、やがて深々と頷いて……。
「では……セントノエルを卒業して、一人の大人として歩みだすあなたに、一つ、母から問いかけたいことがあります」
その言葉に、ラフィーナはすぐに姿勢を正した。両手を太ももの上で、軽く握り、真っ直ぐに母に目を向ける。真剣そのものの表情、その身に纏うは獅子の風格。
もしも、この場にミーアがいれば、きっと姿勢よくお座りする獅子の姿を幻視したことだろう。
そんなラフィーナに、ルーツィエは穏やかに、けれど、はっきりとした口調で言った。
「あなたには、聖女として、向き合わなければいけない人がいるのではありませんか?」
ラフィーナは、んんっ? と首を傾げたが、すぐに、あっ、と口を開け、両手をワタワタ……。
「なっ、お、お母さま、その、馬龍さんとは、そんな……」
「…………えっ?」
「…………はぇっ?」
お互いの顔を見て、間の抜けた声を上げる母と娘。
ラフィーナはしばし、ルーツィエの顔を見つめていたが、その頬がジリジリと赤く染まっていき……。
「ふふ、その楽しいお話しは父上も交えてすることにいたしましょう」
くすくすと楽しげに笑うルーツィエにラフィーナは小さく咳払い。
「で、では、いったい、どなたのことを?」
「あなたが忘れてしまっている人……かつて遠ざけた娘……一番、仲が良かった友のことを、です」
母の言葉に、思わずといった様子でラフィーナが目を見開いた。
突きつけられたのは、ラフィーナの原点とも呼ぶべき傷の記憶。友人に裏切られた……あるいは、ラフィーナが裏切られたと感じ、そう思い込んだ日の記憶。
「……お母さまは、あのような方と話しをするべきだと? なにか話をすることがあるとお考えなのですか?」
知らず、その声に棘が混じる。されど、ルーツィエはあくまでも穏やかにそれを受け止めて……。
「人は、誰しもが間違いを犯すもの。それは、もう、あなたもわかっているでしょう?」
ビクリ、とラフィーナの肩が震える。それは、セントノエルで学ばされたこと……。お友だちのミーアが、幾度も幾度も示してくれたこと。
人は間違いを犯すもの。であれば、その者に対してどのように接するのが最善か……。
「そもそも、彼女が本気でそう思っていたとは限らないでしょう。子どもは親や周りの言った言葉を、そのまま口にするものです」
その言葉を聞いた時、ラフィーナも、お友だちも、まだまだ幼い子どもであった。自分が何を言っているのか、わからないほどには……子どもだったのだ。
「それにね、もしも、それが本心であったとしても、誤った認識は正してあげるべきだったのではないでしょうか……。それが、友というものではないですか?」
優しく、穏やかで……けれど、力強いその視線が、ラフィーナを真っ直ぐに貫く。
「あなたが距離を置いた彼女が、今何をしているか、あなたは知っていて……?」
「え……?」
その言葉に、嫌な想像をしてしまう。
もしも、ラフィーナが遠ざけたことによって、その子が家から追い出されるようなことになっていたら、と……。しかし……。
「ああ、言っておくと、別に、あなたに距離を置かれたからといって、立場が悪くなったということはないです。ごく普通に貴族の令嬢として過ごしていますよ」
その言葉にひとまず安どするも、続く言葉に、再びギョッとする。
「時々、村々を回る際に、お手伝いしてくださってね、それでお友だちになったのです」
「お、お友だち……」
「ええ。ふふふ、ずいぶんと年齢は違うけれど、良いお茶飲み友だちです。いろいろなことをお話ししています」
唖然としているラフィーナに、あっけらかんと言ってから、ルーツィエはそっと目を閉じた。
「彼女は、民のために尽力する立派な貴族令嬢になっていますよ。果たすべき勤めを、きちんと行っています。彼女も、神の臣下の血筋、ヴェールガ貴族の娘なのだから」
「そ、それは……お母さまが諭された、ということですか?」
「いいえ、お茶飲みがてら、教えを乞われれば答えるぐらいはしましたが……こちらから強いて説教をしてやる、などということはしていません」
ゆっくりと首を振ってから、ルーツィエは言った。
「ミーアさんは素晴らしい方です。それは、私も認めましょう。されど、あなたたちが友であることを続けていく時、いつか、あの方があなたの期待を裏切ることがあるかもしれません。あなたは、その時にきちんと諭すのでしょう?」
「それは、もちろんです。そう約束しましたから……」
セントバレーヌでの約束……。互いに指摘し合える友となろうと、確かに約束したのだ。胸を張って答えるラフィーナに、ルーツィエは告げる。
「ならば、なぜ、過去の友にはそうしてあげられなかったのでしょうか? なぜ、過去の友がほんの少し失言し、あなたの期待を裏切ったから……あなたは彼女を友ではないと定めたのでしょうか?」
その問いかけに、ラフィーナは思わず立ちすくむ。
ミーアが今後間違いを犯したとして、友としてそれを指摘するのなら、間違いを犯すことそれ自体は、友を切り捨てる理由にはならないのではないか、と……母は問うていた。
「ラフィーナ、これから先、あなたは幾人もの弱さを持った貴族と出会うでしょう」
「弱さ……?」
「ええ、自分の欲望に負け、民を軽んじてしまう……そのような弱さを持った者たちが、この地には溢れています」
「それは統治者の罪です。神から地の統治を委ねられた貴族に生まれた以上、そのようなことをして許されるはずがありません」
凛とした声で答えるラフィーナに、ルーツィエはゆっくりと首を振った。
「いいえ、人は弱いのです。貴族も王族も、神の前に立つ一人の罪人に過ぎないのです。そのような者を諭し、その者が神の御心に適う善政を敷けるよう、貴女は祈らなければなりません。貴女は、ヴェールガ公を継ぐ者なのですから」
淀みなく、迷うことなく、ルーツィエは言った。
「だから、あなたは、あの子と向き合わなければなりません。かつて、自分が見限った者と、正面から向き合わなければなりません」
母からの重い言葉に、ラフィーナは思わず息を呑んだ。
何も答えることのできない娘に、ルーツィエは軽やかな声で続ける。
「あなたの婚儀や、楽しいことについてのお話しはその後にいたしましょう。きっと、婚姻記念に、お相手の方と一緒に描いた肖像画なんかも売り出すのでしょうし……」
「なっ、おっ、お母さまっ!」
悪戯っぽく片目を閉じた母に、ラフィーナが悲鳴を上げるのであった。