第十一話 アベルの覚悟
――ダサエフ・ドノヴァン伯を味方につけろ、か……。なるほど、それがミーアの見出す最善手か……。
黙って話を聞いていたアベルは、思わず唸ってしまう。
クラリッサの話を聞いた時、アベルは、その不備に気付いていた。
なにしろ、ミーアのそばで、ミーアのやり方を見てきたアベルである。物事を動かす際の帝国の叡智のやり口を最もそばで見てきたのだ。
不正を犯した者を排除するのではなく、改心を求め、有用な人間へと変えていく。
正面切って対立するのではなく……できる限り平和裏に、あるいは相手が喜んで自らそれをするように導いていくこと、それこそが、ミーアの成してきた改革であった。
その意味で、クラリッサのやり方は、アベルの目から見たらいささか稚拙にも思えてしまったのだ。
――いや、ミーアと比べるのは酷だな。ボクがやるとしても、恐らくミーアほど上手くはできない……いったい誰が帝国の叡智ほど上手く物事を動かせるだろうか……。
……アベルの中で、帝国の叡智ミーア・ルーナ・ティアムーンは、紛れもなく政の偉大なる名手なのだ……アベルの中ではそうなっているのだ。
……アベルだけでなく、ある程度の規模の共有幻想になっていそうなのが、さらにオソロシイことではあるのだが。
ともあれ、それゆえにクラリッサの考えをそのまま実行することのまずさを、彼は知っていた。知っていて、止めることができなかった。
なぜなら、アベルがそれをすれば、クラリッサはすぐに考えるのをやめて、従ってしまうように思えたから……。
――どのような形にしろ……レムノ王国の改革はクラリッサお姉さまが主導しなければならない。ボクが押し付けるような形ではいけないし、強引に手を引くようなこともするべきではない。
そう思えばこそ、彼はクラリッサの提案を後押しするつもりでいた。どのような形であれ、彼女が主導で動き出す必要がある、と考えるゆえである。
――しかし指摘されて初めてわかるが……それ以外にはないというほど、最善の助言だったな……。ダサエフ・ドノヴァンを味方に、か、なるほど。
ダサエフ・ドノヴァンはレムノ王国の重鎮だった。
以前、革命騒動が起きる直前、彼は国王に諫言を呈する立場だった。
軍拡と増税を訴える王に対し、民の税負担をこれ以上上げるべきではないと、真っ向から意見した。そのように、国王に真っ向から反対したにもかかわらず、彼は未だに宰相の地位に留まり続けている。
――あれだけはっきりと父に逆らったうえで、なお、その地位に留まり続けているのは、彼がそれだけの力を持っているからだ。そして、彼の力を父が認めているからだ。
実際、ダサエフ・ドノヴァンは侮りがたい人だった。
行政能力や幅広い識見もさることながら、その人柄には多くの貴族が敬意を払っている。
王家と微妙な緊張関係にある、ポッタッキアーリ候を中核とする南部貴族を抑えているのも、他ならぬドノヴァン伯爵家だった。
ダサエフ・ドノヴァンを排除することは、南部への抑えを失うことに繋がり、南部を失うことは、セントバレーヌからの権益を失うことにも繋がる。
そのような選択、取りたくても取れるものではない。
――彼には、後継者もいない。彼を排除して、首を挿げ替えることでドノヴァン伯爵家の権威を味方につけることは難しい。ダサエフ・ドノヴァンという人の存在そのものが、強力な意味を持っているんだ。
さらに、彼は民を思う人でもある。冷静に、理性的に対話をすることもできる。
彼ほど味方につけるべき人物は他にはいない……と思いつつも、アベルにはこれまで、彼の協力を仰ごうという発想はなかった。まるでそんなこと、思いもしなかった。
なぜなら、それは……。
――問題は、彼が古い貴族だということ、王国の伝統を重んじ、貴族として国を守らんとする人だということだ。だから王権をできる限り尊重するし、革命軍に加わるようなこともなかった。レムノ王国貴族であることを誇りとし、その誇りゆえに民を守ろうとする……。そんな彼が、姉上のする変化の提案を受け入れてくれるだろうか……?
アベルには、少なくとも彼を説得できるビジョンはなかった。場合によっては、父を説得するのと同じぐらいには、大変な相手なのだ。
――あるいは、彼は、一つの基準になり得るのかもしれないな。彼が納得するのなら、父も納得するかもしれないが、彼を納得させられないなら、父もまた無理と……。
彼が納得する形で計画を立てられれば、クラリッサの目指す方向へと歩み出すこともできるかもしれない。
――ドノヴァン宰相の賛同を得られれば、か。ミーアは本当に、よく物事を見ているな。レムノ王国内のことも、ある程度はわかっているのだろうな……。
改めて、自らの想い人への尊敬を新たにするとともに、アベルは静かに目を上げる。
――ボクには彼女のように、人々を動かすことは難しい。だから、ボクが彼女を支えられるようにならなければならない。
そして、その前に、レムノ王国のことを改革の道筋をつけなければならない。
それは、レムノ王国の王子として果たすべき責任。
果たすべき……最後の責任。
それを果たしたうえで、彼は、レムノ王国の王子であることをやめようと思っていた。むろん、それは精神的なものではあるのだが、彼の中では大きなけじめだった。
レムノの王子である自分から、帝国の叡智の夫としての自分へ。
彼女を支え、その偉大な働きを支えること。
そして、統治者としての彼女ではなく、人としての彼女を、愛し支えること……。
そのためのけじめだった。
――後顧の憂いを除くために、なんとしても、成功させなければ……。
アベルの覚悟は、ミーアが思っているよりだいぶ熱量の高いものであった。