第百二十八話 ベル探検隊のミステリークルーズ1
そよそよ、さわさわ……。
迷路のような水路を、ゴンドラがのんびり進んでいく。
それは、休日に相応しい、とても平和な光景だった。
「それにしても、よく迷いませんね。こんなに入り組んだ水路なのに……ボクじゃとても覚えきれません」
「ははは、そりゃあ、船頭だからなぁ。水路がどこに繋がってるか頭に入ってないと商売にならんのさ。なにしろ、ここにはいろいろな巡礼者が来るからなぁ。どんなオーダーにも応えて案内できなきゃ話にならんのよ」
「おお、すごい!」
歓声を上げるベルに、船頭のおじさんはニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なぁんてな。実はな、あの川沿いの彫刻が目印になってんだ」
船頭の指さす先、水路脇の壁には見事な彫像があった。それは、神聖典のエピソードにも現れる天使像だった。
「あの天使像は七種類あるんだが、さらに一種類につき七体ずつあってな。一つ一つ微妙に違うんだ」
「七種が七体ずつということは四十九体ですね。天使の数が七体というのは、完全数と言うことなんでしょうけど、四十九体もあるなんて変わってますね」
サラリと計算問題を解いたベルに、ふわぁ! っと尊敬の目を向けるキリルと、ホッと安堵の息を吐くリンシャである。そう、ベルは基本的に頭は悪くないのだ。普段は使わないだけで、算術も歴史も、やろうと思えば、それなりにきちんとはできるのだ。
「でも、わざわざ一つ一つ変えているのは、最初から水路の目印代わりにするつもりだったんでしょうか?」
ベルの問いかけに、船頭は、うーん、っと唸った。
「どうなんだろうな。ここに巡礼者が大勢訪れることを、その当時の町の人々が予想していたかどうかは、ちょっとわからねぇな」
「なるほど。でも、その当時から計算して作ってたなら、すごい先見性ですね。やっぱり、一国の首都ともなると、それぐらいいろいろと考えながら作らないとダメなんですね」
賢そうなつぶやきをこぼすベルに、シュトリナとリンシャが、おお! っと瞠目する。
それは、帝国の叡智の子孫に相応しき視点。いよいよベルにも帝国の叡智を継ぐ者としての自覚が出てきたのか、と二人が嬉しさ半分、寂しさ半分の顔をしていると……。
「なにか、隠された秘密とかあるのかも……冒険の匂いがします」
などと、ぶつぶつ。ブレないベルなのである。
「でも……四十九体。すごく多いですね……」
なにやら、思うところがあるようで、ベルが難しい顔をする。っと、そんなベルに船頭はわずかばかり低い声で……。
「実はな、ここだけの話、本当は天使像は五十体あるんじゃないかって話があってな。いや……、ある、というよりは、増えると言ったほうが正確なんだが……」
怪談を語るような、なんとも恐ろしげな声で言って、船頭はニヤリと笑った。
そんな船頭にピクンッと肩を震わせたのはキリル…………の近くにいたパティだった!
心なしか不安げに弟ハンネスと、友人ヤナのほうに目をやり……わずかばかり体を寄せるパティ。船の端にならぬよう、挟まれるような位置に、ちょっぴり体を移動する。
一方で、ベルは、ふむ、っと鼻を鳴らし……。
「一体増える……ですか。それは不思議なお話ですね。ぜひ、詳しく聞いてみたいです」
「そうだな。俺も聞いた話なんだが……」
船頭はゆっくりとした口調で話し始めた。
これは、ドルファニアの若き船頭(19)が経験したお話。
ドルファニアの南地区にて、師匠のもとから独立した青年は、その日、お客さんを降ろして仕事を終えようとしていた。
偶然にも、最後に仕事を終えた場所は、第七の七の天使のもとであった。
「そういえば、天使像を順番に辿っていく修行があったな。せっかくだし、久しぶりにやって帰るか」
それは、船頭の間で水路を覚えるためにする修行の一つ。
今いる位置から一番近い天使像のもとへ行き、そこから順番に天使像を辿っていくことで、その配置を記憶させるためのものだ。
第六天使像から始めるならば、次は第五か第七、第七の次は第一か第六、と数字を繋げて目的地まで行くのだ。
ちょうどよく、近くには第七の七の天使像がある。そのため、彼はこう思った。そうだ、どうせなら今回は「第七」だけではなく、後ろの数字の七も合わせて辿っていくのはどうだろう? と。
「あまり簡単なことをしていても腕は上がらない。天使像がない水路も合わせれば行けるだろうし、やってみるか」
独立したばかりの腕試しの意味もあり、彼は頭の中で水路の順を考えていく。
彼が考えたルールは、第七の七からスタートしたら次は第六の一、第六の六、第一の一、第一の六のいずれかへと進んでいくというもの。進み方を間違えるとすぐに行き詰まるため、綿密に進む先にある天使像も考慮しなければならない。
天使像の種類と数字は、基本的にはランダムだった。第七天使のそばに第七天使が固まっているわけではないので、船頭としての記憶力が非常に試されることになる。
――これは、なかなかに良い修行になるな。よし、俺も弟子を取ったら、やらせてみようか。
などと思いつつも集中。
次の水路は右へ、次は左へ。三叉路は真ん中を、などと、知識を総動員していく。
街並みを眺めるでもなく、天使像の数字にのみ集中し、水路を進んでいた時だった。ふとした瞬間、彼は……地図を見失った。
「あれ? ここは、どこだっけ?」
今いる場所を確認するべく、辺りを見回した彼は……思わずつぶやいていた。
「いや、どこだよ、ここ……」
そこは、確かにドルファニアであった。うっかり街の外に出ていた、などということはない。
水路から見える街並みに変わりはない。
相変わらずの古びた石造りの建物が、視界の中を占めている。
にもかかわらず……彼にはその場所がどこなのか、よくわからなかった。こんな場所には、今まで一回も来たことがなくって……。
日が傾き、夕日はいっそう赤みを増していた。
悪魔は夜に闊歩する、とは、ヴェールガ公国ではよく言われる言葉だ。子どもの帰りが遅くならぬように、との戒めの言葉であるが……。
されど、ふとした瞬間に考えてしまった。
もしも悪魔が闊歩するのだとすれば、彼らが一斉に外に出てくるのは、夕方の遅い時刻。赤い夕陽が、夜の闇と溶け合い、さながら血のような深い赤になってくる時刻のはずで……。
ぶるり、っと彼が背筋を震わせた、まさにその時、それは現れた。
ひっそりと佇んだ天使像。
それを見つけた時、彼は思わず、安堵した。
「ああ、助かった。天使像さえ見れば、ここがどこかわかる」
天使像の場所は全て頭に入っている。だから、それが何の天使像なのかわかれば、自分の居場所もわかるはずだった。
そう、そのはずだったのだ。なのに……。
「え…………?」
その天使像は、彼が知らないものだった。
赤い夕陽に照らされた、物寂しい表情の天使像……。その背中には、他の天使像とは違って、禍々しい二対の翼がついていた。
「こっ、こいつは……」
っと、まじまじとそれを観察しようとした瞬間、不意にその天使像の目がギラリ、と自分のほうを見た……気がした。
怪しげな光を放つその視線は、天使というよりもむしろ……。
っと思ったところで、彼は急いで櫂を操り、その場から逃げ出した。
――振り返ったらダメだ。振り返ったら連れていかれる!
必死に櫂を操り、水路を行く。少しでも天使像から遠ざかれるように、と懸命に。
どこをどう逃げたものやら、彼自身にもわからないが、ともかく、滅茶苦茶に水路を進み進み、その全身が汗でぐっしょりと濡れた頃に、彼はよく知る水路へとたどり着いていた。
背後を振り返れば、無数に枝分かれした水路が見えるばかり。
自分がいったいどこをどう進んでここまで着くことができたのか、一向に思い出すこともできぬまま……。
彼は、疲れ切った体を引きずるようにして、船着き場に降り立つのだった。