第百二十七話 ヴァレンティナのウォーミングアップ
今週はゴールデンウィークなので、ミーアはお休みです。
レムノ王国の南部、ポッタッキアーリ侯爵領に隣接する小さな領地、チェッキゴーリ子爵領。
領主のチェッキゴーリ子爵は、この年、六十歳。南部の大貴族ポッタッキアーリ候の派閥に属しつつ、自家の権勢を伸ばすべく、日夜、精力的に動いている元気な老人である。
さて、その子爵邸、執務室において。老境の子爵は気難しげな顔で報告書を読んでいた。不機嫌そうに眉を寄せつつ、
「ふん……ドノヴァン派の勢いは相変わらずか。宰相殿は相変わらず民の人気取りが上手い。しかし、ポッタッキアーリ候も存外、情けないな。上手く引きずり降ろしてやればよいものを……。仕えがいのないことだ」
忌々しげにつぶやいて、目を上げた彼は、部屋の入口に誰かが立っているのを見つける。
見たところ若い女のようだ。メイドだろうか? しかし、あんな女がいただろうか……。
近頃、だんだんと弱って来た目元をこすりつつ、改めてそちらに目を向ける。
「ん? 誰だ……? お前は……」
「ご機嫌よう。チェッキゴーリ子爵」
艶やかな声。どこか聞き覚えのある……声。遠い記憶からその持ち主が浮かび上がってきてきて……、次の瞬間、子爵は悲鳴を上げた!
「お……わっ! わっ! お、王女殿下! ヴァレンティナ王女殿下ではございませんかっ!」
ガタっと思わず、椅子を倒す。
暗殺されたと噂される、現在、行方不明中のレムノ王国第一王女、ヴァレンティナ・レムノが、静かに、そこに佇んでいた。壁にしなだれかかるようにして、こちらを見つめている。
暗く、吸い込まれそうになる切れ長の瞳、新月の夜のように黒く、艶やかな髪。血のように赤い唇に嫣然とした笑みを浮かべて、チェッキゴーリ子爵を見据える。
驚きに体が固まるも、素早くそれを隠し、老境の子爵は満面の笑みを浮かべた。嬉しそうに目尻に皺を寄せ、両腕を広げ、ヴァレンティナに歓迎の意を表する。
「今まで、いったいどこに行かれておられたのですか? いや、そんなことより、こうしてご無事な姿を見ることができて、この老骨は喜びに満ち溢れておりますぞ。国王陛下もきっとお喜び……んなっ!?」
言葉が途中で止まる。
その視線が、ヴァレンティナの後ろから入ってきた男に注がれる。
口髭をはやした小役人のような男、彼はチェッキゴーリと同じ派閥に属する男爵で……あの日、共にヴァレンティナの暗殺を画策した共犯者であった。
「あら? もう出してしまうの、馬駆? もう少し、この茶番を楽しもうと思っていたのに、残念」
「見苦しいものを見るのは、我の好みではない」
男爵を押すようにして、もう一人の男が入ってきた。二匹の戦狼が、その後を追って、悠然と入ってくる。いかにも暗殺者然とした雰囲気の男に、チェッキゴーリは思わず声を上げそうになるが……。
「ああ、大声を出すと狼が興奮してしまうかもしれないわ、お静かに、ね」
ヴァレンティナは唇に人差し指を当てつつ、小さくウインクする。
「危害は加えないと言っても、たぶん信じてはもらえないでしょうから、別の言い方をするわ。助けを呼んでも無駄よ。あなたの首筋を狼が噛み砕くほうが、兵士が駆け付けるより早いから」
それから、ヴァレンティナはチェッキゴーリの机の上に横座りになって子爵を見る。
「座りなさい。チェッキゴーリ子爵。ただ、懐かしいお話をしたいと思っただけだから。そのために男爵にもご足労願ったのよ」
試すように上目づかいで、ヴァレンティナは言う。
「紹介は不要でしょう? 領地も近いし、無論、お知り合いよね」
チェッキゴーリはゴクリ、と喉を鳴らしつつ、
「ええ、まぁ、そのー……。何度かは、王室のパーティーなどでお会いしたことも……。な、なぁ」
同意を求めるように男爵に声をかけるが……。
「あら、何度か、だなんて。つれないことを言われたら、男爵だって悲しいのではないかしら?」
わざとらしく、悲しげな顔を作って、ヴァレンティナは続ける。
「それに、私だって悲しいわ。たった何度かの会合で、暗殺計画を成功させられてしまったのだから」
息を呑むチェッキゴーリに、再び華やかな笑みを見せて、ヴァレンティナは首を傾げた。
「悪だくみのために、幾度も一緒に会合を開いていたのでしょう? というか、それぐらいされてないと、さすがに不本意だわ」
一瞬、ヴァレンティナの瞳に怪しげな光が宿った。それは怒りか、恨みか……あるいは、なにか別の感情か……。剣を突きつけられたような錯覚に襲われて、チェッキゴーリは思わず、体を後ろに引く。
「あ、あれは、国王陛下が望まれたことです。陛下がそうお望みとお聞きして……ポッタッキアーリ候から我が派閥の勢力を伸ばすためと言われて、しっ、仕方なくしたことで……」
スッとヴァレンティナの手が挙がって。
「ええ。ええ。あなたの言いたいことはよくわかる。悪いのはポッタッキアーリ候。だから、本当は、彼と話をしに行くべきなのでしょうけど……彼、あげちゃったのよ、弟にね」
「は? あ……あげた……とは?」
思わず、口からこぼれ落ちるのは、狼狽を隠しきれない声。ヴァレンティナは薄く、口元に笑みを浮かべて。
「あの子、私のことが大好きだったから、酷いことをしていないと良いのだけど……。ちゃんと上手く使ってくれれば、きっと面白いことになるでしょう。そうならずとも、私は別に構わないけど……」
っと、小首を傾げてから、ヴァレンティナは改めてチェッキゴーリを見つめる。
「それよりも……あなたには聞きたいことがあったの。男爵からも聞いたけれど、是非直接お聞きしたいと思って……」
真っ直ぐに見つめてくる瞳、息苦しさを覚えて、チェッキゴーリは視線を外す。それを追いかけるようにして、ヴァレンティナの声が響く。
「チェッキゴーリ子爵、私の命を奪え、と父は本当に言ったのかしら?」
「そっ、それは、もちろん……」
「私を殺せと言ったのね?」
「いえ、その、直接的には……。ですが、お父上の意志はそのようなものであったこと、あなたもご存知でしょう? 元はと言えば、あなたが……」
ヴァレンティナが人差し指を立てて、チェッキゴーリの言葉を遮る。
「チェッキゴーリ子爵、あなたは第一王女の暗殺を謀った大罪人です。このことを我が父が知れば、あなたの一族郎党はことごとく処刑されることでしょう」
「なっ! そっ、それ、は……」
「この場であなたを害するつもりはない、と言ったのは、そのためよ。報復するつもりならば、あなた一人をここで殺すようなことはせず、あなたの全てを痕跡すら残さずに殺すことができる。でも……私はそんなことをしたくない。チェッキゴーリ子爵家は古くからレムノ王国を支える伝統ある家柄ですもの。だから、チャンスを与えようと思うの」
そうして、ヴァレンティナは、とても親しげな、美しい笑みを浮かべて……。
「私の味方になりなさい。レムノ国王ではなく、ポッタッキアーリ候ではなく、私の手足となって働きなさい。チェッキゴーリ子爵。そうすれば殺しはしない……。どうかしら?」
「なっ……」
色々な思惑が頭の中を過る。提案を引き受けた時のメリットとデメリットを天秤にかけ……ることなどもちろんできることもなく!
――どっ、どうかしら? と言われても……これは断れないのでは?
チラリと男爵のほうに目を向ける。っと、すぐに視線を外されてしまった。逃げ場はない。味方もいない。
ゴクリと喉を鳴らしてから、渋々ながら、チェッキゴーリ子爵は頷くのだった。
「それにしても……」
子爵邸を後にしてから、ヴァレンティナは小首を傾げる。
「いったい、どこの蛇が彼らに囁いたのかしらね? 王は娘を殺したがっていると……」
そこには、もちろん、忖度はあったのだろう。
なりあがりたい者たちにとっての餌。王の不興を買っている第一王女を亡き者とし、その功績をもって出世しようという、打算はもちろんあったのだろうが。
――とても浅はか。利用されて、その後で処刑されるのが目に見えているというのに、このような企てに乗るなんて……。容易に操れる浅はかさだわ。それならば……。
口元に笑みを浮かべて、ヴァレンティナは言った。
「せいぜい、上手く利用させてもらいましょうか」
小さなつぶやきは誰の耳にも届くことなく、静かに溶けて消えていった。