第百二十四話 それなら、それなら……
「百年後の未来すら視野に……」
帝国の叡智の示した壮大な視点に、ルシーナ司教は思わず気圧された。
子や孫のことを考えてというのは、親ならばわかる感覚だし、当然持つべき視点だろう。が、百年後を見据え、世界自体を良き物とするための視点というのは、想像もしていなかった。
――目の前のことだけでなく、先の先を見据える……。政に携わる者としては決して忘れてはいけない視点だろうが、いったいどれほどの王が、そのような視点を持ち得るだろうか……。
思わず、感嘆のため息を吐く。
――自身の死後の世界まで視野に入れた政をしようとは……。セントバレーヌでのことで、ミーア姫殿下の人となりはわかっているつもりだったが……まさか、これほど広い視野をお持ちの方とは思っていなかった……。
瞠目しつつ、ミーアを眺める。
ちなみに、その帝国の叡智は、称賛されるべき非常に広い視野をもって、お替りのクッキーを探していたのだが、そんなこととは露知らず……。
それから、ルシーナ司教は改めて考える。
――確かに必要な視点ではあるが……されど、悠長なことを言っていては間に合わないことがあるのもまた事実。
と、そこまで考えたところで、彼は自身の誤りに気付く。
――否、そうではないのか……。ミーア姫殿下は、すでに、目の前の危機には対処する術を組み立てているのだ。
だから焦る必要はない。焦って強引に事を進める必要はない。
――私はまだ……信じ切れていなかったということか……。
セントバレーヌで悔い改めたはずだった。
けれど、どうしても、王侯貴族への不信感は拭えない。ミーアに大きな権威を持ってもらいたいというのは、裏を返せば、信用ならない権力者への牽制に他ならない。
余計な邪魔が入ってほしくない、との想いは、ルシーナ司教のみならず、他の司教たちの総意でもあった。けれど……。
――ミーア姫殿下は、そのような邪魔など一顧だにしていない。むしろそのような者たちにも改心を促し、いつの間にやら味方につけてしまう。
小さくため息を吐いて、首を振る。
――今が世界を動かすべき時。ゆえに拙速にならず、最善を尽くさなければならない、か……。我らは信頼のおける統治者を聖人認定し、彼女の権威のもとで世界を動かすことが良いと考えた。けれど、ミーア姫殿下は、信頼のできる統治者を増やすべきである、とお考えになったのか……。
それから、彼はレアのほうに目を向けた。
司教会議の中で、堂々と渡り合っていた娘の姿が、ルシーナ司教に突きつける。
用いられないということは……誰かから信用され、務めを任されないことは……人にとって害になるのだ、と。
――レアを見ていると、本当にそれがよくわかる。家にいた時には、大人しく、内向的な子だったのに……。あんなに堂々と……。
ルシーナ司教は改めて思い知る。
思考を止めてしまう愚を……。
最善は何かと、常に問い続ける大切さを……。
――我々のやろうとしたことも、しょせんは古き考え方だったということか。しかし、ミーア姫殿下は、新しきことを始めようとされている。新しき流れ……世界を変える流れを作り出すこと……それは、一時的なものであってはならないのだ。
一人の力ある権威者が引っ張って変革を進めていく。それは強力ではあっても、思考放棄にも繋がる。ミーアがいない場所においても問題を引き起こす。
なにより、目的に対する共感がなければ、協力するほうも、本当の意味で情熱を傾けることができないだろう。
本気で世界の流れを変えようと考えるならば、各国の王侯貴族の意識を変え、人々の意識を変えていく必要がある。
――もしも、本当に神の時で……変革の波が来ているというのであれば、我らがこざかしく策を弄する必要はない。むしろ、ミーアさまの言われる通りに、真の意味で最善を尽くすことが求められている、ということか。
それは、新しいことであると同時に、中央正教会の原点に回帰することでもあった。
――思えば……中央正教会もそのようなものであったのだった。民に教えを施し、一人一人が自ら神聖典を読み、自ら考えられるように、と……。
帝国の叡智は示している。
自分が善き方向へと引っ張っていくのではなく、一人一人が考えて、善き方向に歩んでいかなければならない、と。
そのように働きかけることこそが、中央正教会の、ヴェールガの仕事ではないか、と。
そう、ミーアは示しているのだ。
「それならば、どのようにするのがよろしいかしら、ミーア姫殿下」
声を上げたのは、ルーツィエだった。
「パライナ祭で、ヴェールガとティアムーンの姿勢を世界に示す。それだけで十分だとお考えでしょうか?」
ルーツィエの問いかけに、けれど、答えたのはミーアではなかった。
「パライナ祭の後で『世界会議』を開いてはいかがでしょうか?」
発言したのは、ラフィーナだった。
「世界会議で、ミーアさんに演説していただけばよろしいのではないかと思います」
真っ直ぐに母の顔を見つめて、ラフィーナは言った。