第百二十一話 慈愛の天使アンヌエル
「ヴェールガ公……。神の時といいますと……?」
突然のことに、きょとりん、と小首を傾げるミーアである。
「そう難しい話ではないのです。ミーア姫殿下……。刈り取るのに時があり、種を蒔くのに時がある……。出会うのに時があり、結び合わされるのに時があり、子を成すのに時がある……自然の営み、人の営み……すべてのことに、それを成すのに適した、神の時がある」
オルレアンはそうして、静かに天に目を向ける。
「今、世界が動き出そうとしている……。それを肌で感じます。私ばかりではない。みなが見解を一致させています。我らはずっと祈り、求めて来た。この世界をより良い方向に動かすために、どうすればいいのか……。ずっと待ち望んでいました。あなたのような善き指導者が現れるのを……」
それから、ミーアのほうに視線を転じ、彼は言った。
「今こそ、神が定めた時ではないか。各国の足並みを揃えて、前進し、世界を善き方向へと進ませるべき時だ、と……。我々はそう思っています。しかし……」
苦しげに、眉間に皺を寄せて、オルレアンは言った。
「人は保守的な生き物です。自分を変えたくない。たとえそれが良い方向であっても、どれだけ益があることであっても……。飢えて死ぬ子どもがいなくなるように、と、そんな当たり前の善行でさえ……人間は変化を嫌うのです。今日と同じ一日が一生続いてほしい。なにも変えたくはない。変わっていくのは、面倒で疲れることですからね」
オルレアンの言葉を引き継ぐように、ルシーナ司教が口を開いた。
「おそらく、ミーア姫殿下がなさろうとしていることに、反対の者が現れるでしょう。なにも変えたくないがゆえに、反対のための理屈を整えて、批判をすることでしょう……。その中で最も説得力を持つのが……神の名を持ち出すことです」
どこか苦しげな表情で、ルシーナ司教は続ける。
「こういった改革は、中央正教会の主導でするべきだ。そうでないならば反対すべきだ。帝国の姫は、なにか、悪しきことを企んでのことかもしれない。帝国の姫など信用ならぬ。このような大きな変化を、彼女の主導で行わせるべきではない」
芝居じみた口調で言ってから、ルシーナ司教が肩をすくめた。
「似たようなことを考えていた私が言うのもどうかと思いますが……。そういった者たちを納得させるために、聖人認定は役に立つことでしょう。そして、それ以上に厄介な、その手の者たちに扇動された民を、説得するためにも」
ミーアは、ふむ、と小さく鼻を鳴らす。
――なるほど、確かに、その理屈で反対されるのは面倒ですわ。下手に反論すれば、わたくしが中央正教会に敵対しようとしていると受け取られるかもしれませんし……。そのように煽ることも、蛇ならばするかもしれませんわ。
それを思えば、聖人認定してもらうメリットはあるわけで……。
「民の納得は軽んじられるべきではないと私は思います。じっくりと時間をかけて納得を得るよう努力する……そうできれば一番良いのでしょう。しかし、それを待っていては間に合わないことというのがあるとも思うのです」
「種を蒔くのに時があり、刈り取るのに時がある……。神の時というわけですわね」
ミーアの言葉に、深々と頷き、ルシーナ司教は続ける。
「民の反対を無視してでも判断しなければならない時が、我ら統治者にはある。けれど、今回は幸いにも、聖人認定という、民の納得を得るための方法がある。ならば、この時、神の時に、それをしない理由はどこにもない」
それは……ある意味で、決定的な瞬間であった。
ミーアを聖人に認定するということは、すなわち、海産物研究所のみならず、ミーアネットの取り組み、並びに帝国の働きを、中央正教会が、神の御心であると認めることだ。
ミーアは今、大陸各国に確固たる基盤を築く、中央正教会の支持を、個人として得ようとしていた。
その栄誉に、その身を覆う全能感に、ミーアは思わず酔いしれ…………酔いしれ……ることは、もちろんない。当然ない! まったく、微塵もない!
むしろ、ミーアは、かつてないほどのヤバい匂いに全身を震わせていた。
理由は、非常に簡単だ。
そんな権威を、個人的に帯びてしまったが最後、その責任はこのうえなく膨れ上がってしまうからだ!
――というか、これ、もしも失敗したら、全部わたくしのせいにされるやつなんじゃ……。
例えばの話、ミーアがなにかをやろうとする。
ミーアは聖人なのだから、みんなは積極的に協力してくれるかもしれないし、現地の教会も協力してくれるだろう。無批判に、ミーアのやろうとしていることの内容を検討することもなく、きっと熱心に協力してくれるだろう。聖人さまがやるのだから、きっと意味があるに違いない、と。
しかし……、もしも、それで失敗したら……?
――責任は、すべて、わたくしが負うことになりますわ!
その失敗が大きければ、中央正教会は聖人認定を取り消すかもしれない。その後、現地の者たちの損害に対し、多少の補填はしてくれるかもしれないが……せいぜいがその程度。後の責任はミーアにすべてかかってくるのではないだろうか!
そう、それは言ってしまえば、ミーアが決して望まぬイエスマンを周囲に量産するようなものだ。ミーアエリートのみならず、聖人イエスマンが、ミーアの周りに集まってしまうことなのだ。
――そっ、そんなの真っ平ごめんですわ! しかし、これ、どう反論すれば……。
ルシーナ司教の考えた理屈であるがゆえに、それはなかなかに崩しがたい説得力を持っていた。
――ぐぐう、だ、駄目ですわ。やはり、頭が働かない……。どっ、どうすれば……っ!
まさに、その時であった!
ミーアの目の前に、すっと……音もなく紅茶のカップwith大きめのクッキーがのせられたお皿が置かれた!
――こっ、これはっ!
カッと目を見開いた後、ゆっくり横を見れば……。
「会議の途中ですけど……ルーツィエさまの許可をいただいて、お茶菓子をご用意しました。難しいお話だから、頭が疲れちゃうかなって……」
そう微笑んだアンヌが、ミーアの目には、ステンドグラスに描かれた天使に見えた。
慈愛の天使アンヌエルが、スイーツを与えるために、ミーアの前に到来した瞬間であった。