第百二十話 神の時
突如、話を振られたユバータ司教は、一瞬、目を瞬かせてから、思わずといった様子で苦笑した。
「そうですね。聖人という枠組みは、神聖典には一切記載がありません」
あっさりと認めてしまう。
「ちなみに、現在の中央正教会の組織の原型については記載があります。しかし、そもそも、ヴェールガの国家システムなども、後の世の人々が神聖典の意を汲み取り、作り上げたものです」
その答えに満足した様子で、ルーツィエは微笑んで、
「そう。ヴェールガの国家の仕組みは、とてもよくできています。神を王と戴く国が大陸の中央にあり、各国の王侯貴族の高慢を防ぐように、神聖典という一つのルールに基づいて教育を施す。これはとてもよい仕組みと言えるでしょう。上手く使うことができれば、この地の平和に貢献することができる。そして、聖人という枠組みも、結局は、それと同じことなのではありませんか?」
小さく首を傾げつつ、彼女は続ける。
「便利に使えばいいのです。聖人というものも。我ら人間は、神の御心をこの地に実現するために生きる者。統治者は、民を安んじて治めることで、神の御心を実現する存在。ならば、聖人という肩書を、そのために、便利に使ってしまえばいい。そして不要になれば、そんなものに囚われる必要はないのです。それを持つことで、神聖典の教えに背くようになるというのなら、さっさと手放してしまえばいいのです」
ルーツィエの言葉は、神聖ヴェールガ公国にとっては、あまり都合の良いものではなかった。そのいささか過激な発言に、ミーアは思わず慌てる。
――そっ、そんな身も蓋もない……。さすがに、そんなことを言ってしまったら、怒られてしまうのでは……?
シュシュっと、素早く視線を巡らせる。っと、司教たちの中には、苦笑いを浮かべる者はいるものの、怒っている者はいなかった。
どうやら、大丈夫らしいが……。それでも念のために、
「あ、あの、ルーツィエさま、その……。そのように言って大丈夫なんですの? さすがに、この場で、そのようなことは……」
確認だけはしておこうと思うミーアである。そんな疑問に応えたのは、会議場にいたルシーナ司教だった。
「かつて、他ならぬ、このヴェールガ公国が蛇の脅威に晒されたことがありました。蛇は、時のヴェールガ公に取り入ろうと近づき、神聖典に匹敵する、新たなる『神の命令』を世に発するよう、公爵に求めました。神を王に戴くこの国が、小国であるのはおかしい、より繁栄と栄華を極めるため富を集めるように、大号令を発するべきである、と」
ルシーナ司教は、眉間に皺を寄せつつ、淡々と続ける。
「幸いにも、ヴェールガ公はその誘惑を退けましたが……我らは学んだのです。このヴェールガという国ですら、蛇は歪め、悪用することができると。仮に、人の作り出した制度が、神聖典に忠実に運用されて、民の益となることはあっても、それがそのまま神の命令になるわけではない。人の発する言葉が、神の御心に叶うことはあっても、それがそのまま神の言葉になることはあり得ない。あくまでも、神の言葉は神聖典のみである、と」
どれほど優れた制度であっても、人が作った物であれば、運用を間違うこともあれば、人の害になることもあり得る。人はどこまでいっても罪の性質を残すものであり、過ちを犯すものであるからだ。
ヴェールガの政策であれ、中央正教会の声明であれ……ヴェールガであるゆえに、中央正教会であるゆえに、正しいとはされないのだ、と。そのような誤解は往々に生まれるものではあるけれど……。
「ゆえに……聖人に認定するという行為も、人が作りだした制度であるのならば、有益に使えばいいし、害になるならば取り止めてしまえばいい……というヴェールガ公爵夫人の言葉は正しいと認めます」
ルシーナ司教の言葉に、他の司教たちが深々と頷く。
なるほど、どうやら、それが共通認識らしい。ならばと、ミーアは小さく頷いて……。
「ルシーナ司教は、わたくしを聖人と認めることに益がある、とお考えということですの?」
「ミーア姫殿下ならば、上手く使っていただけるだろう、と信用している……これでは答えにはなりませんか?」
静かな瞳で見つめ返されて……その瞳の中に、熱狂や感情の高ぶりではなく、以前と変わらぬ理性の光を見つけて、ミーアは……思わずホッと安堵の吐息を吐いた。
――なるほど。このご様子では、どうやらルシーナ司教が裏で根回しをしているみたいですわね。
それを察することができたからだ。
もともと、ルシーナ司教は、ミーアの存在に懐疑的な人だった。彼の周りにも、恐らくそういった人々がいたのだろう。その者たちを納得させるために、ミーアを聖人認定してしまおうというのであれば、これは、ルシーナ司教なりの、ミーアへのエールと言えるかもしれない。
ルーツィエに関しても、もしかしたら、ルシーナ司教が声をかけたのかもしれない。あるいは、娘ラフィーナに乞われてのことかもしれないが……。
なにはともあれ、何かしらの期待を抱き、思惑をもって、ミーアを聖人認定しようとしているというのは、一つの朗報であった。
なにせ、もしもなんの根回しもなく、これほど一致した礼賛を、送ってきているのだとすると……怖すぎるし。
――とりあえず、念のために、ルシーナ司教の思惑をお聞きしておきたいですわね。
なにを期待されているのか。何を考えて、聖人認定しようとしているのか……。
確認しておかないと、下手に期待を裏切った結果、ヴェールガ公国と仲違い、などということになったら目も当てられないわけで……。
ミーアは、ふっと笑みを浮かべてルシーナ司教に言った。
「そうですわね。いろいろと使えるのかもしれませんけれど……できれば、ヴェールガ公国の願いをお聞きしておきたいですわ。先ほども申し上げたとおり、わたくし、目の前のケーキのイチゴに目を奪われてしまう俗人ですから」
「神の時がある……ということです。ミーア姫殿下」
ミーアに答えたのは、この会議を仕切っている男……大祭司たるヴェールガ公オルレアンであった。