第百十九話 弟子たち、ドン引く……
会議場に突然現れた女性に、ミーアは思わず首を傾げた。
美しい女性だった。
深い青を湛えた髪、それを頭の後ろで一つにまとめている。優しげに細められた瞳、その色は、底知れぬ知性を感じさせる深い緑色だった。
慈愛に満ちた清らかな笑みに、ミーアはどこか見覚えがあった。
――あら、この方は……。もしや……。
「お初にお目にかかります。ミーア姫殿下。私はルーツィエ・オルカ・ヴェールガと申します。いつも、娘がお世話になっております」
瞬間、思わずミーアは立ち上がる。ガタっと大きく音が立ってしまった。しん、と静まり返る会議場を軽く見回してから、小さく咳払い。それからスカートをちょこんと持ち上げて。
「お初にお目にかかります。わたくしは、ミーア・ルーニャ……ティアムーンですわ。いつも、ラフィーナさまには大変、お世話になっておりますわ」
微妙に噛みつつも、澄まし顔で頭を下げる。
久しぶりの大物の登場に、いささか動揺を隠せないミーアである。
なにしろ、相手はヴェールガ公爵夫人……以前に、あのラフィーナの母である。
あの、獅子ラフィーナの母なのである。
最近は、すっかり丸くなり、その本質が実は猫なんじゃないか? という疑いが浮上しているラフィーナであるが、ミーアは忘れていない。
前時間軸において、ラフィーナに向けられたつめたぁい視線のことを……。
もっとも、それはそれで、懐く前に猫が向けてくる冷めた視線だったという疑いが拭えないところであるが……。それはさておき……。
――ふぅむ、なるほど、よくよく見ればラフィーナさまと雰囲気が似ておりますわ……。非常にお美しい……。しかし、ラフィーナさまの髪の色は、お父さま譲りなのですわね……。
内心で納得していると、ルーツィエは、ゆったりとした口調で続ける。
「それにしても、ミーア姫殿下、あなたは娘の言うとおり、とても高潔な方なのね」
ミーア、一瞬、チラリとラフィーナのほうに視線を送る。
いったいどんな風に言われているのやら……少々気になりはしたものの、とりあえずおいておいて……。
「いえ、高潔という言葉には、当たらないのではないかと思いますわ。先ほど、わたくしがお話ししたことをお聞きではなかったかもしれませんけれど……」
この場で褒められるのは、ミーアとしては絶対に避けたいところ。念を押すように、自らの俗物アピールを再開しようとするが……。
「いいえ、ずっとお話は聞かせていただきました。ふふふ、ケーキのくだりはとても興味深かったですよ」
くすくすと笑ってから、ルーツィエは晴れ晴れとした顔で続ける。
「ですが、やはり、あなたは非常に高潔な方です。ラフィーナが誇らしげに自慢していたのがよくわかります。私のお友だちはすごいのよ、と」
「なっ! おっ、お母さま!」
手をワタワタさせながら慌てるラフィーナであったが、そんなことに構っていられない。
ミーアは敏感に、周囲の反応を察知していた。
すでに、宮殿の周りに、大量に武装したギロちんが押し寄せている感は否めないところであったが……それでも、ここが踏ん張りどころと気合を入れて! それから媚びるような笑みを浮かべてルーツィエに言う。
「ラフィーナさまは、わたくしを過大評価しておりますわ。先ほども言ったとおり、わたくしは、ただの俗物。罪多き人間に過ぎないんですの。そのことは、わたくしがよく知っておりますわ。食欲に流されやすく、怠惰に流されやすく……。聖人と呼ばれるのに相応しい人間では決してありませんわ」
ミーアの言葉を聞いて、横のほうでレアが……。
「……これだけの功績をあげながら怠惰……ミーア師匠に勤勉という評価をもらうには、いったいどこまでやれば……」
「まだまだ研鑽が足りませんねー、お互いに」
なぁんて、オウラニアと二人、戦慄の表情を浮かべつつドン引きしていたわけだが、それはさておき……。
ミーアの言葉を聞いても、ルーツィエはまったく動じることはない。むしろ、それを微笑ましいものとでも言わんばかりに、あくまでも穏やかな口調で……。
「とても正直なのですね、ミーア姫殿下。少しでもご自分に欠点があると知れば、それを許すことができないのでしょう。それを隠すことも誤魔化すことも潔しとはしない。だから、ここで正直に告白している。そうではありませんか?」
その言葉はとてもとぉっても優しい。さながら娘を導く母のような……柔らかで、しなやかで、とても強い言葉だった。
「それを高潔というのです。ミーア姫殿下。あなたは、私などよりもよほど高潔な方ですよ」
――こっ、これはまずいですわっ!
一瞬、そうか、わたくし高潔でしたのね……なぁんて流されそうになるも、かろうじて堪えるミーア。その間にもルーツィエの言葉は続く。
「完全なる無私で無欲で……誰かに優しくできる人が果たしてどれだけいるでしょうか。いえ、はたして、そんな人間はいるのでしょうか。神聖典の中に現れる古代の預言者や偉人達も、時に怒り、悲しみ、妬み、己が感情のままに誰かを助け、誰かを殺す。神に助けを求めつつ、自らの敵の滅びを祈る。一切隠し立てすることなく、神聖典には誤魔化すことなく、そのような人間のありさまが書かれている。それが我ら人間の、偽らざる姿なのだから……」
神聖典に書かれたことは綺麗事だけではない。むしろ、人間の生々しい罪の歴史が描かれている。そしてそれは神に逆らう罪人のみならず、神に従わんとする人々についても同様である。
「この地に住まう人は、みな罪人。神を王として戴く、このヴェールガ公国とて変わりはありません。我らの生まれついての性質は悪、一切の邪心なく善を行なえる者はただの一人もいない。けれど、それだけではない……始まりの時に最善として作られた我らは、罪に堕ち本来の姿を歪めてしまったけれど、再び救われて善きものになっていくことができる」
それだけ言ってから、ルーツィエはミーアのほうに目を向けた。
「ご自分を怠惰だと知り、欲深き罪人だと自覚し、それでも諦めて立ち止まらず、歩みを進める。善きことを成そうとしている。ミーア姫殿下、私はあなたを尊敬します。我が娘ラフィーナがあなたのような方を友とできたことを、心から嬉しく思います。そして、心から、私はあなたを聖人に推挙いたします」
ヴェールガ公爵夫人、ルーツィエの言葉は非常に力があった。会場中の人々を納得させるような、ミーアすら納得せざるを得ないような……力強さが満ち満ちていた。ミーアにとっては、大変、不幸極まることではあるが。
っと、そこでルーツィエは一転、悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「それに、心配しなくても大丈夫ですよ。ミーア姫殿下。聖人なんて、そもそも神聖典にはなにも書かれていないのだから。そうですね、ユバータ司教」