第百十話 風前の灯……かも?
「あら、あれは……」
走って近づいてきたのは、ベルだった。息を切らし、全速力で走ってきたベルに、ミーアは眉をひそめた。
「ベル、どうしましたの、そんなに慌てて。それに……」
っと、ベルの後ろで、同じく走ってきたシュトリナに目を向ける。
「リーナさんは、病み上がりではなくって? そのように、走らせてはいけませんわ」
「だっ、大丈夫です、ミーアさま。お気遣い感謝いたします。でも、リーナは大丈夫なので……」
胸に手を当て、ふー、っと息を整えているシュトリナ。しばし様子を見て、どうやら、大丈夫そうだぞ、と確認した後、ミーアはベルのほうに顔を向ける。
「それで、どうしましたの、ベル。あなたが落ちつきがないのは、いつものことだと思いますけど、リーナさんまで、こんなに慌てているなんて。よほどのことがあったのかしら?」
「むぅっ! ミーアお姉さま、なにやら、ボクのことを馬鹿にしているような感じがするんですけど……」
眉間に皺を寄せ、ジロリと上目遣いに見つめてくるベル。
「あら、そんなことはございませんわよ? あなたは大切なま……、んっ、んんっ、真面目な妹……真面目……? う、うーん、ともかく、妹ですから。もっと高みを目指していただきたいと思っておりますの。優雅さと礼節、余裕のある態度は令嬢にとって非常に大切なものですわ」
一瞬、孫と言いかけるも、そういえば、まだオウラニアには事情を説明してなかったかしら、どうだったかしら? と軌道修正。
されど、誤魔化すために、真面目と言いかけ……あまりにもベルに馴染まない評価に自分自身で首をひねってしまった結果、強引に話を進めるミーアである。
「まぁ、それはおいておいて……それで、慌ててどうしましたの? ベル」
「あ、そそ、そうなんです。ミーアおば……お姉さま。実はですね、ついに霧の海の場所がわかったかもしれないんです!」
ずずいっと身を乗り出してくるベル。意外な言葉を聞いて、ミーアは思わず目を丸くする。
「なっ、なんですって? ついに、あの歌詞の意味がわかりましたのね? それで、いったい、どこに……」
っと前のめりになるミーアに、ベルはニッコリと微笑んで人差し指を立ててふりふり……。
「実は、帝国の中にあるんじゃないかって、思ってですね。ずばり、静海の森が妖しいんじゃないかと……」
っと、もったいぶった様子で話し出すベルに、ミーアは一つ頷いて……。
「静海の森が……? ああ、ええっと、とりあえず、場所を変えましょうか。廊下で話すのもなんですし……。ハンネスさんも一緒にいたほうが話が聞きやすいですわね。どこか部屋を……」
っと、ラフィーナのほうを見れば、ラフィーナは任された、とばかりに胸に手を当てる。
「わかったわ。すぐにユバータ司教に言って用意してもらうから」
言うが早いか、ラフィーナは足早にその場を去っていった。
ちなみに、急ぎはしても、決してバタバタと足音を立てたりはしない。実に貴族令嬢然とした態度だった。
あれだよ、あれ……っとベルのほうに目を向けてみれば、
「ん……?」
ベルは、なにか? という感じで小首を傾げていた。
……ダメそうだった。
ということで、みなは、近くの小会議室へと移動した。
すでに、ハンネスのほうは来ていたので、全員がテーブル席についたところで、話は始まった。
「実は、ジーナ・イーダが隠していた紙片には、薬の調合法が書かれていたのですが、どうやら、例の『水土の薬』に関するもののようなのです」
「なんと! 調合の仕方がわかったということですの?」
「はい。混ぜ合わせる薬草、それに、特別なキノコの類もある程度、目星がつきそうで……」
「ほほう! 特別なキノコ……! それは、わたくしも知恵をお貸ししたほうがよろしいような気がしますわね」
ミーアの目が妖しくキラリと光った。それを見たパティが、一瞬……、
「あれ? これ大丈夫なやつだっけ?」
と首を傾げて……腕組みしつつ、考えることしばし……。
「まぁ、うちの孫なら大丈夫かな!!」
っと、納得顔に変わってしまった!
残念ながら、パティは孫娘に対して、絶対的に近い信頼を抱いちゃっているのだ!
……サンクランドの苦労人も、帝国の苦労人もいない中、ニコニコと話を進めるハンネスの命は、風前の灯火かもしれない。
まぁ、それはさておき。
「なるほど、その作り方を精査する必要がございますわね。これは一歩前進として……それと、静海の森がどう関係してくるのかしら? あっ、もしや、そのキノコというのが、静海の森にある、七色に輝くキノコだったり……」
「あ、いえ、そうではないのですけど……」
そう首を振った後、ベルはきょとん、と目を瞬かせて、
「っていうか、七色に輝くキノコなんてあるんですか?」
「わたくしも見たことがありませんけど、あっても不思議はないでしょう。世界は広いのですから。そのようなキノコがないということは誰にも証明できないはずですわ」
俗にいう悪魔キノコの証明というものである……俗には言わない。
先ほど、ジーナに語った時のように、高尚な神学論を語るかのような口調で、不可思議なキノコについて力説した後……。
「話が逸れましたわね。それで?」
「あ、はい。実は、霧の海の、えーと、語源? の話をしていた時のことなのですが……」
「語源……?」
問いかけられたベルは、深々と頷き、シュシュッとハンネスのほうに視線を送った。その動き、さながら熟練の伝令兵のごとく……。
ベルの「師匠、お願いします!」の視線を受けたハンネスは静かに微笑んで、
「ええ。大陸共通語で言うところの霧の海は、ヴァイサリアン族の古い言葉では、ゼレ・シーラと言いまして。霧を表すゼレは、もともと静寂、沈黙を表す言葉で、シーラは、たくさんのもの、多い、などを表す言葉から派生したものなのです。その組み合わせで……」