第百八話 その月明かりが照らし出す闇の底
「……ふん、くだらない。帝国の叡智も、しょせんはそんな程度ですか……」
閉じられた扉、それを睨みつけながら、ジーナ・イーダは吐き捨てるように言った。
「一瞬、一秒たりとも……。ええ、私は、そんな物を感じたことはない」
誰に言うでもなく、虚空に向かって叩きつけるように言って……その言葉に、思いのほか力がないことに、顔を引きつらせる。
「そのはずです。私は、間違ってなどいない……」
まるで、自分に言い聞かせるように、つぶやいて、思い出す。
あの日……父が亡くなったあの日。
一人の老婆がジーナに……否、ゼナに近づいてきた。
「ああ、賢き娘ゼナイダよ、哀れなことだ……。お前の父は賢い男だったが、最期の最期に弱さに流されたな。情けない父をもって、実に哀れな娘だ」
「情けない……? 父さまが?」
キッとにらみつけると、老婆は気遣うような、優しい笑みを浮かべる。
「そうとも。自身の考えを貫けず、神にすがった、そんなものはいないと言い続けた、自分自身で切り捨てた存在にすがるだなんて……実に哀れな男じゃないか。若き頃、お前の父は確かに賢き男であったが、死の恐怖に打ち勝つことはついぞできなんだと見える」
やれやれ、と首を振りつつ、老婆はゼナの頭に手を置いた。
「賢き娘、ゼナイダ。お前は、父のように愚かな最期を迎えてはいけないよ」
「愚かな最期……」
呆然とつぶやくゼナに、迫るように老婆は続ける。
「そうとも。愚かも愚か、だってそうだろう? 最期の瞬間に、今まで自身が信じ、従ってきた信念を曲げて、捨て去り、神にすがったのだ。これほど愚かで、醜いことがあろうか」
老婆は親しさと、思いやりのこもった優しい声で、ジーナに語りかける。
「お前は賢い娘だ。だから、わかるだろう? わからぬはずがあるまいよ。お前は我が一族で最も賢い娘。他の子どもたちとは比べ物にならない。なにしろ、お前は、かつては、最も賢かった父親に育てられた娘なのだから」
するりと、耳に入ってくる声。柔らかく甘い声。子守歌を歌うように優しく、老婆は語り続ける。
「お前の父は、確かに最期に失敗したさ。けれど、その誇りが全て損なわれたわけじゃあないとワシは思う。お前という賢き娘がまだいるからね。お前が、父に教わった通りに、その生き方を貫くことができれば、きっと、お前の父の名誉も取り戻されるだろうさ」
あの日……最愛の父を失った日。
全てを知っていて、なんでも教えてくれた……彼女の誇りだった父が、永遠に失われた日。
村の老婆が語った言葉が、頭を過る。
そうだ、と、確かにその通りだ、と、思う自分がいる。しかし……。
「それが、あなたの幸せなのかしら? それが、あなたのお父上の望みなのかしら?」
帝国の叡智の問いかけが、その声に被る。
それが自分の幸せか……? その問いに答えることはできなかった。当たり前のことだ、そもそも、ゼナは自身の幸福に価値を見出せないのだ。
――そもそも幸せになど意味はない……あるはずがないし、私は、そんなもの、認めたことすら……。
「一瞬、一秒たりともありませんの?」
問いかける声。甦る光景。
綺麗な月が空高く輝く夜。
海の上、小舟に乗って、向かい合う先には、一人の青年の声。
「愛しているよ、ゼナ」
他愛ない言葉だ。
世界中で、幾人もの人間が言い、言われてきた、使い古された言葉だ。
それがわかっているのに、でも、初めて言われたその言葉に、ゼナは確かに心の高鳴りを見つけた。
賢く生きることなど……あの老婆の言葉など消え去り、父への想いも一瞬薄れてしまう……。
そんな瞬間が、確かにあった。
あの日、ガヌドス港湾国王家の者たちに阻まれなければ、あるいは、その道もあり得たかもしれないと……確かに思える瞬間が……。
「一瞬、一秒たりともありませんの? 本当に?」
再び、問いかける声。甦る光景。
彼女の唯一の子、カルテリアの顔。
赤く上気した頬、苦し気な眉間の皺……。
それは、嵐の夜の出来事だった。
カルテリアが、高熱を出したことがあった。
熱冷ましの薬草を求めて、ゼナは、身を隠していた島を走り回った。
雨に体を濡らしながら、懸命に……。転がり、泥にまみれながらも、命懸けで。
自分は、なぜ、あんなにも焦っていたのか?
ガヌドス国王を暗殺するための手段が失われるから? 王家の血を引く暗殺者を、ここまで育て上げた苦労が水泡に喫するから?
「違う……違う……?」
違った。
そうではなかった……。
そうでは……なかったのだ。
「ああ……そう……そうでした。あの日、私は、ただ必死で……」
そう、必死で、何も考えられずに、ただただ、薬草を探して走ったのだ。
生まれてきてくれた命を、大切な子を失わぬために……。
ただ、必死だったのだ。
ただ、必死に、育てたのだ。
感じなかったわけではなかった。
見えなかったわけではなかった。
ただ、感じないふりをした。見えないと思い込んだ。
そこに意味はないって、価値などないって、そう思い込んでいたから……。
「あの日、私が感じたものは、なんなのでしょう……?」
わかっている。そんなものは主観に過ぎない。
ただの気持ちの問題だ。ただの心の問題だ。
今日生きていても、明日は死んでいるかもしれない、虚しいただ一人の人間が、個人的に感じているだけのもので……。
「あなたにとってはそれが全てでしょう?」
突きつけられる、帝国の叡智の言葉。
自身の生きてきた世界観の行き着くところ。
不条理な世界に価値と意味を与えるのが自分でしかないのなら、虚しく儚い、自分自身の感情だけが全てでしかなく……。
「その虚しいもののために生きてきた?」
否、その虚しいものにさえ、背を向けて生きてきたのだ。
お前にはなにもない、と突きつけられて、ジーナは立ちすくんだ。
世界を意味のない、不条理なものと嘲った。
その真実を知らぬ者たちを見下して、自分はそのような愚か者にならぬように、と、この不条理な世界に生きるのに相応しく振る舞おうとしてきた。
その結末が、これだった。
彼女の人生には意味も価値も生じることはない。それは、至極当然のことだ。
意味も価値も存在しない世界に合わせて生きた人生なのだから。
ゼナは……ゼナが蒔いた種を、今、刈り取りつつあった。
彼女の生きた意味はない。
その人生には、なんの価値もない。彼女がそのように生きようとしたから、そのようになったのだ。自分がこのように生きようとして歩んだ人生の末路を、彼女は突きつけられていた。
「幸いなことに、あなたはまだ間に合うのですから……」
憎たらしいほどに、ミーアの言葉が甦ってくる。
それは、あの日の老婆のように甘い言葉ではなかった。
優しくもないし、都合よくもない言葉だった。
「お前は、まだ、やり直すことができるのに、なにもしないのか?」と。
それはまるで、夢にまどろむゼナの頬を張り飛ばすような、強烈な言葉だった。
「そんなこと……愚かなことです……とても、愚かな……」
つぶやく自分に、別の自分が問いかける。
――愚か? 誰が? 愚かなのは、私自身でしょう?
誰よりも賢く、世界の真実を知っていると思い込んでいた自分が……そこらの小娘よりも道理を知らぬ愚か者に思えてならなかった。
なぜ、そんなにも簡単なことがわからなかったのか……?
ゼナには、わからない。もう、何もわからなかった。
そんな、暗闇の中を、迷い立ち止まる彼女の目の前に、
「幸せになっても良いのですわ」
帝国の叡智の、月明かりのような言葉があった。
何も見えない闇の中に、迷い、疲れ果て、倒れることさえ許さない……お前の行くべき道は、こちらなのだ、と残酷なほどに強く指し示すような光が……。
「愚かな……今さら……私の幸せなど……」
まだ、間に合うという事実が、いっそ残酷だった。
それがわかってしまったのなら、彼女は、選択しなければならないからだ。
示された道を進むか、それとも、何もせず立ち止まったままでいるか……。
どれほど辛くとも、苦しくとも、彼女は向き合わなければならない。
わからない、と言い訳をすることは、できないのだ。
「カルテリア、それに…………ネストリ殿下……」
たった一人の部屋に、ただ、ゼナのつぶやきが溶けて消えた。