第百七話 ハンネス師匠の言語学講座
一方その頃……。
ベルとの事情聴取でキャッキャしてしまったことで、すっかり精神力を削られたシュトリナが、ベッドの上で、しんなりしているところへ、ハンネスが訪ねてきた。
「あっ、ハンネス師匠!」
ベッドサイドの椅子に座っていたベルが立ち上がり、しゅしゅっと姿勢を正す。
「クラウジウス卿、ご機嫌よう」
シュトリナも体を起こし、ベッドから下りようとするが、そんな彼女をハンネスは押しとどめた。
「ご無理をなさらずに、そのままで結構ですよ。というか、申し訳ありません、乙女の病室にぶしつけにきてしまいまして。はは、これでは姉上に怒られてしまいそうですよ」
ハンネスは肩をすくめてから、一転、心配そうな顔で言った。
「それで、お体の調子はいかがですか、イエロームーン公爵令嬢」
「ええ。おかげさまで。もう、普通に動けます。どうやら、蛇の毒霧は体を痺れさせるだけのものだったようで……」
シュトリナの答えを聞き、ハンネスは、胸に手を当てて、安堵のため息を吐いた。
「それはなによりです。実は、急ぎで見ていただきたいものがあるのですが、問題ありませんか?」
返事を待たずに、数枚の紙片を取り出す。
「それは……?」
「ジーナ・イーダが隠していたものです。どうやら、蛇の薬のレシピのように思うのですが……」
「蛇の……」
シュトリナは眉間に皺を寄せて、その紙片を受け取る。
「例の水土の薬に繋がる情報なのではないかと思うのですが……」
「なるほど、少々、失礼します」
静かに文面に目を通そうとしたシュトリナだったが、すぐに困惑した様子で顔を上げる。
「これ……古代帝国語……とかではないですよね?」
シュトリナは、大陸共通語のほかに古代帝国語も少々嗜んでいる。けれど、そんなシュトリナでも、その文字は読めなかった。横から覗き込もうとしたベルも、シュシュっと椅子のほうに撤退していく。
「恐らく、古きヴァイサリアンの言葉ではないかと思います。いくつか読める文字を訳してみましたが……。この部分が、どうやら、煎じ詰めることについて書かれているようです。こちらは、数字ですね。分量について書かれているのではないかと思います」
「なるほど……。あ、この文字は見たことがあります。古代帝国語に似た文字がありますね。確か、特殊なキノコの名前じゃなかったかな……」
頬に指を当て、こてん、と首を傾げるシュトリナに、ハンネスが頷いた。
「ご名答です。そして、その隣の部分、ここの文字が生命の実を表す言葉です」
その指さした先、そこには文字と共に絵が書き込まれていた。
半分に切られた木の実、つるりとした果肉には、一切の種が見られない不思議な木の実の絵だ。
「やっぱり、この命の木の実……『水と土の実』の入手がポイントでしょうか……」
シュトリナは紙片をめくって眉をひそめる。
「この次の一枚も、たぶん『水と土の実』についての細かい加工の仕方が書かれているし、見るからに、この薬の中心は、この木の実みたい……」
「やはり、そうですか……。その『水と土の実』を探す必要がある……そのためには、ヴァイサリアン族のルーツをたどる以外に手掛かりがない。我らは帰らん、霧の海へと……か」
そんな二人の会話を、ジッと黙って聞いていたベルがちょこんと首を傾げた。
「ちなみに、古代ヴァイサリアンの言葉だと『霧の海』ってどういう言葉になるんですか?」
「ああ、そうだね……」
ハンネスは小さく頷いてから、
「霧の海は『ゼレ・シーラ』という言葉になる。シーラは海のことだが、もともと、内陸部から移動した彼らは、海というものを知らなかったんだ。だから、海という言葉の語源は「多い、たくさん」の意味を持つシラの語源から派生した言葉なんだよ」
「つまり、霧の海の場合、もともとは『霧の多くある場所』を意味する言葉だったかもしれない、と?」
うーむむ、っと眉を顰めるベルに、ハンネスは人差し指を振りつつ……。
「そう。ただ、さらに言うならば、霧を表す言葉『ゼレ』も、もともとは、静寂や沈黙を表す言葉であったと考えられているので、静寂の多き場所、沈黙の多き場所、あるいは、静寂の海、沈黙の海、とも解釈できるかもしれない」
教授のような口調で言ってから、ハンネスは腕組みする。
「ただ、帰る場所が島ではなく、海なのが気になるといえば気になるな。ヴァイサリアン族は海洋民族ゆえ、そのような歌詞になったとも考えられるが……」
難しい顔をするハンネスに、ベルが、真似をするかのように腕組みして、ものすごーく難しいことを考えてますよぅ、っという顔をしてから、
「命の木が生えた場所ならば、むしろ、森とかのほうがイメージに合いますね。『シーラ』は、木がたくさんある場所と見ることもできるんじゃないでしょうか」
「なるほど。創世神話では、人間は神の庭園と呼ばれる場所に住んでいたと言われている。海よりは森のイメージのほうが、確かに合うかもしれない」
「うーむむ、とすると、静寂の森、沈黙の森……、静寂の海……あれ?」
ふいにベルが、顔を上げた。
「どうかしたのかい?」
不思議そうに首を傾げるハンネスに、ベルは遠慮がちな口調で……。
「いえ、その……。これは、ただの思い付きですけど……帝国内に、不自然な地名の場所があるな、と思いまして」
「不自然な地名?」
「はい。前から変だなって思ってたんです。どうして、帝国にあって、海とはまったく接していない場所にあるのに、こんな名前なんだろうって……」
一度、言葉を切ってから、ベルは言った。
「その……静海の森って」