第百四話 最期の祈り
「私が、神に囚われている……? 馬鹿な……」
一瞬、呆然としてしまうジーナであったが、すぐに首を振って否定する。そんなジーナに、事さらにゆっくりとした口調でミーアが言った。
「わたくしの目には、あなたが、神を否定することに固執し、その結果、自らの不幸を招いているように見えますわ。そのような生き方で幸せを得られるのかしら?」
「私の幸せ……? くだらない……そんなものになにか意味があるのでしょうか?」
ジーナは、態勢を立て直しにかかる。
この世界は不条理な偶然が支配する世界だ。唯一、自分の心のみが意味を作り出す世界だ。死ねば消えてしまう自分というちっぽけな存在にとっての幸せに、いったい何の意味があるのか、と……。ジーナが続けようとしたところで。
「あら、あなたにとってはそれが全てではないのかしら?」
ミーアの、不思議そうな声が追いかけてきた。
「え…………?」
思わぬことを言われて、ジーナは目を瞬かせる。
「例えばわたくしは、帝国皇女として、国に果たすべき責任がございますわ。ゆえに、多くの民のために、わたくしの幸福……安寧の日々が犠牲になるということも、あり得なくはありませんわ。まぁ、わたくしが心の平穏を保つためには、帝国が平和でなければならないから……だから頑張らなければならないと言い換えることもできるかもしれませんけど……」
ぶつぶつと何やらつぶやいているが……、その大まかな意味は、ジーナも理解できた。
つまり、ミーアはこう言っているのだ。個人の幸福よりも優先される大きな価値を認めるのであれば、その大きな価値を守るために個人の幸福が犠牲になることもある、と。
「けれど、あなたはそのような価値観で生きてはおりませんのでしょう? あるいは、ラフィーナさまであれば神聖典に基づいて言うでしょうか。人間には果たすべき役割がある、と。子を成せば母として子を愛し、共に歩む友、仲間を思いやる。人間とはそのようなものであると、神が定めている、そのように形作られていて、それが正しいことであると。だから、人間はそのように生きるべきだし、そのように生きることには意味がある、と言うことができる。けれど……あなたはそれを否定しておりますわ」
ミーアは真っ直ぐにこちらを見つめる。
「あなたはそのような価値観を、古きしきたりに縛られた馬鹿らしいものと言っている。であるならば、あなたがどのように生きるかは結局のところ、ご自身の幸せで測るしかないのではないかしら……?」
「それは……」
言われてみれば、それは当たり前のことだった。
死ねば終わり、自分の命と共に全ての意味も価値も失われるのだとすれば、自分自身の幸福は、何より重視されるべきもので……。
「それゆえに、わたくしは気になっているのですわ。あなたは幸せになるために、そのような生き方をしているのか、と。この世界の形が、どのような物かを、ご自身の生き方をもって証明することこそが、あなたの幸福なのかしら? と……」
そう言って、ミーアは心底から不思議そうな顔で唸った。
言い返そうと息を吸ったジーナであったが……一瞬、息を呑みこむ。しばし考えてから、ジーナは口を開いた。
「私が幸せか? ああ、そんなこと、考えるまでもないことでしょう。ええ、もちろん、私は幸せで……」
「……嘘」
小さな声が、一言で否定する。そちらに目を向ければ、ミーアの身体の後ろから、ちょこんと顔だけ出している少女の姿があった。
この場で最年少の少女、パティが、ジーナの目を真っ直ぐに見つめていた。
「……目が泳いでる。私じゃなくてもわかる。あなたは、嘘をついてます」
淡々と、抑揚のない声で指摘され、ジーナは衝撃を受ける。
相手は蛇の教えを受けた子どもだ。そのことは承知していたはずなのに、ミーアの言葉に動揺して心を読まれた。
それほどまでに、ジーナを動揺させる力を、ミーアの言葉は持っていた。
「あなたは動揺してる……あなたは、自分が幸せだって、胸を張って言えないんだと思います」
――私が、動揺してる……? なぜ? 私が、神を否定することに固執してる? それゆえに、不幸になっている? そんなことはない。神聖典などと言う古きしきたりに縛られることこそが不幸だ。
「……そうだ、お父さまは教えてくださった」
頭の中、響く声。
色々なことを教えてくれた父。
鳥も、蝶も、花も、クモも、トカゲも魚も、なにもかも……。あの島には多種多様な命が溢れていた。そこに潜められた真実を、自分は確かに父から教わった。
そこに意味はない。すべては偶然によって形作られた。神など古きおとぎ話だ。
父は、何でも知っていた。
中央正教会から離れ、他のヴァイサリアン族の者たちとも距離を置き、神話にも、古きしきたりからも解放された、自由な思考で。
父は世界の真実を解き明かした。そのはずだった。
されど……ジーナは一度として聞いたことがなかった。
父が、幸せであったのか……。その死が、満足のいくものであったのか。
きっと、聞けば父は答えてくれただろう。
「幸福かどうかなんて、死んでしまえば消えてしまう。偶然が支配する世界、木の実が頭に落ちてきて、明日死んでしまうことだってある世界で、自分が幸せかどうかなんて、些細なことだよ」
と。まるで、この世の唯一絶対の真理を語るかのような口調で。
そう、きっとそうに違いない。だから、自分は揺らぐことがないのだ、と……。
そう思いかけた時、不意に思い出す光景があった。
遠い昔の記憶……ずっとずっと昔に置き去りにしてきた光景。
病に臥せった後、父は、しばしば、夜中に外に出ることがあった。
そうして、ただ一人、人知れず……彼は祈りを捧げていた。
目を閉じて、一心に――そんなこと、なんの意味もないと言っていた彼が、そう確信していたはずの彼が……まるで、神がいるかのように、振る舞っていたのだ。
若き日のジーナは思った。ああ、父も死の恐怖に負けて、愚にもつかないおとぎ話にすがるようになってしまったのか、と……。
情けないと唾棄した。そして、同時に思った。自分は、決してそのようにならない、と。
この世界には神などいない。全ては古きおとぎ話。そんなものに決して縛られぬように生きようと。
そう決意して……でも、今にして思う。
改めて、目の前に突きつけられる。
あの父が、聡明で、なによりも頭の良かった父が……一時の心の安寧を得るために揺らぐことがありえるだろうか?
本当にそうだろうか?
あるいは……ただ、彼は知ってしまったのではなかったか?
彼の保持する世界観の行き着く先には絶望しかないのだと……。その理屈を突き詰めると、そこに待っているのは、死ですべてが崩れ去る、完全なる無でしかないのだと……それを悟って、そして、後悔したのではないだろうか……。
そうして、ジーナは初めて思った。
――あの日、父さまは、何を祈っていたのだろう……?
そんなジーナの心を読んだかのように……。
「お父さまは、あなたに何を願っておられるのかしら? お父さまが、最期にあなたのために祈られたことは、なんだったのかしら?」
ミーアの声が、耳に飛び込んできた。