第百一話 いつでも謙遜、ミーア姫!
「ええ。あなたのお話をぜひお聞きしたいですわ」
ミーアはごくあっさりと言った。それを聞き、ジーナは少しばかり拍子抜けしてしまう。
――てっきり、直接、蛇のことを聞きに来たとばかり思いましたけれど……。
どんな手段で自分から情報を引き出すのか、その手腕に若干興味を抱きすらしていたのだが……。
「まぁ、そう言うことであれば構いませんけど。では早速。今回のことについてお聞かせ願えますか? ミーア姫殿下。あなたが、このドルファニアであげられた戦果について。あれは、全てご計画通りだったのですか? そのすべては、叡智の計算の内であったのでしょうか?」
「……全てといいますと?」
ミーアは、はて? ととぼけるように小首を傾げる。
「あら、そのような白々しいことをせずともよろしいですのに。全ては全て。ドルファニアにいらしてから、蛇を根こそぎにしたことです。私だけでなく、潜在的にこの地に潜んでいた危険分子、エピステ主義者まで根こそぎにしてくださいましたね。神聖図書館を燃やす計画も事前に防がれてしまいましたし」
考えれば考えるほど、今回は蛇の側の完敗だった。たぶん、隠した蛇の関連資料も見つけ出されてしまうだろう。ジーナは蛇に関連する資料を隠すことはあっても、処分することはなかった。処分することは、蛇の命脈を断つことにも繋がるだろうから。
地を這うモノの書やそれに類する、悪意ある情報は、誰の目にも触れずに消してしまうことこそが、一番の無害化の方法だった。
誰かの目に触れ、記憶に刻まれることで、ふとした瞬間に毒が回る。蛇とはそういう性質のものだとジーナは理解していた。
ジーナは、別に蛇に心酔しているわけでもないし、そこに絶対性も認めていない。
ただ、自身の行動に、神は蛇に感化された者の手を通じて、蛇の命脈を断ったのだ、などと言う意味を見出されるのは不快だった。
――とはいうものの、やはり帝国の叡智の手に蛇の情報が集まることは、あまり好ましくはないでしょう。たぶん、それを探しにここに来たのでしょうから、目的を達成されてしまったわけですし……。
そう考えると、本当にすべてが帝国の叡智に都合よく動いていた。
すべてが帝国の叡智の計算通り、手のひらの上の出来事であったというなら、その脅威はあまりにも大きいが……。
はたしてどこまでが、帝国の叡智の計画でなされたことで、どこまでが不条理な偶然の結果なのか……。
ジーナが気になっているのはそこだった。
「正直に教えていただけるなら、ぜひ、お聞かせいただきたいですね。後学のためにも」
それを聞いたミーアは、しばし考え込むように腕組みしてから、チラッとラフィーナとオウラニアのほうに目をやってから……。
「そのように……わたくしがすべてやったかのように言われるのは、過大評価というものですわ。今回のことは、リーナさんとディオンさん、ベルとクラリッサ姫殿下、ラフィーナさま、アベル、みなさんが、相互に最善を尽くした結果ですわ。わたくしがしたことなど、ほとんどなにもございませんわ」
そっと目を閉じ、手を組んで、ミーアは柔らかな笑みを浮かべる。まるで、祈りを捧げるかのように。
「なにより、ここは聖なる神の都ドルファニアですわ。神の恩寵厚き場所なれば、神が自らの手で守らぬはずもなし。もしもわたくしが何かを成したとしても、それは、神がわたくしを用いたというだけのこと。わたくしに帰せられる黄金の栄光など何一つございませんわ」
その言葉に、ジーナは小さく舌打ちしそうになる。
「そのような戯言を、本気で信じているのだとすると、あなたもたかが知れていますね。帝国の叡智」
吐き捨てるように言うジーナに、聖女ラフィーナが眉をひそめた。
「ミーアさんは謙遜が過ぎると思うけど、でも、この地に潜む悪を一掃するために、神がミーアさんを選んで、お用いになったという考え方には私も賛成するわ」
聖女の言葉に、ジーナは皮肉げな笑みを浮かべた。
「悪は必ず裁かれ、一掃される。実にヴェールガの聖女らしい考え方ですけれど、そもそも善悪などというものには、なんの意味もありません」
まるで、幼子に言い聞かせるように、あるいは聞き分けのない子どもを諭すように……ジーナは淡々と言った。
「ただ、そこに物があり、運動があるだけです。そこには是非もなければ価値もなく、まして善悪などもちろんない。例えば、ラフィーナさま、私があなたの頬を打ったとしましょう。しかし、それは手という肉と骨の塊が、ただ横に移動し、同じ肉と骨の塊にぶつかったというだけのことです。そこには善悪も意味もない。そこに手があり、横に動き、頬に当たったというだけ。その結果、頬に傷がついても、それは、肌の状態が変わっただけ。善いも悪いもないのです」
目に映る世界、そこに実在するものがすべてだ。意味もなければ、善悪もない。
「不条理で、ただ偶然の重なりが支配するこの世界に、意味を与えるのはちっぽけな私という存在のみ。そして、私が、私のためだけに、そこに意味を見出しているだけなら、それには一体、何の価値があるでしょう? 私は、私がいかに移ろいやすく、取るに足りぬ存在であるのかをよく知っています。その私が見出す意味になど、何の価値もないでしょう?」
今でも目の前に甦ってくる光景がある。
あの色鮮やかな島。風変わりな生物に溢れたあの島の光景。
そこにある真実。
「私は見て、知っています。野の花を舞う蝶の羽の色が、不思議な模様を描くのは、それで鳥の目を欺くため。けれどそれは、蝶がそのように形作られたからではない。ただ、偶然にそのような形を得た蝶が生き残り、子孫を残しただけのこと。そこに因果はあれど、善悪はない。原因と結果はあっても、善悪は存在しない。なぜなら、善悪を決める神などいないからです」
石の上に放った水に花の形を見るように、あるいは、星を繋いだ無意味な線に神話の物語を見出すように。
「運命などない。神の計画もまたしかり。虫にも動物にも人にも、その生にも死にも意味などない。ただ、その物を見て、人間が勝手に意味を見出している。消え去るだけの人間が、ただの自己満足のためにそこに物語を見出して、勝手に空想を広げたのです」
昔……父が言っていた言葉が頭に響く。
『神などいない。神など空想の産物なんだ。頭の良いお前は、他人の空想話に縛られて、自由を失ってはいけないよ……』
ジーナは、その言葉に首肯する。
――父さまの子である私は、そのような空想話に踊らされるほど愚かではありません。
静かに、ラフィーナのほうを見つめて、ジーナは言った。
「私は、あなたたちが作り出した空想話に縛られるなどまっぴらごめんですから。そのようにしてできた秩序など、すべて壊してしまおうと。そのように思っていますよ」
「そのために、カルテリア……お兄さまを、暗殺者として育てたのですかー? ご自分の死を偽ってまで?」
オウラニアが、わずかばかり青ざめた顔で尋ねる。なんでもない、とばかりにジーナは微笑んで、
「母が子を愛さなければいけない、などと誰が決めたのですか? それは、人という種が歴史の糸を後世へと繋げていくために編み出された、古きしきたりに過ぎません。後世に人間という種を繋げなければならぬ道理は、どこにもないでしょう? 生み、増え、地を満たせと命じた神を認めないのであれば」
人の営みの形自体を自分自身で自由に決められるのであれば、子をどのように育てても問題はないはずだ。
父を殺すように、子を育てるという禁忌すら許容される。それを悪であると定める決まりがないためだ。そもそも、許すとは誰が許すのか? 意味を定めるのが自分であるならば、許す許さないすら決めるのは自分自身ではないか?
もしも、自分が裁かれるのであるとすれば、それは自分が悪であるからではない。ただ力がなかったからだ。ルールを決めた国や集団に、自己のルールを押し通すだけの力を持たなかっただけなのだ。
それは、さながら蜘蛛の巣に囚われた蝶のように……。
そのように生きて死ぬのだと、ジーナは堅く信じていた。
そこで、不意に……。
「あなたは、それで幸せなのかしら?」
小さな問いかけがなされた。
ぽつり、と……それは、ジーナの心に小さな波紋を立てる。
「それが、あなたのしたいこと……あなたの生きたい生き方なのかしら?」
続く声にジーナは、不意を突かれたように黙り込んだ。それからゆっくりと声の主……ミーア・ルーナ・ティアムーンのほうに目を向けた。




