第九十九話 この蝶が蜘蛛の巣にかかり、あの蝶が自由に空を飛ぶように
そこは、とても美しい島だった。
青く澄み渡る空、風を受けて悠々と空を舞う白く大きな鳥。
黒いゴツゴツとした岩にぶつかり、弾けた波が飛沫を上げる。その岩の上では巨大なトカゲが日向ぼっこをし、砂浜には岩と見まごうばかりに大きな亀がのんびりと歩いている。
ジーナ・イーダが育ったのは、ガレリア海に浮かぶ小さな島だった。
大陸とは違う、極めて多様な生態系を維持するその島は、大陸内陸部の楽園を追われたヴァイサリアン族が見つけた、第二の楽園と呼べるような場所だった。
その日、ジーナは森の中、泉の近くで遊んでいた。鮮やかな赤い花が一面に咲き誇る花畑、そこに飛ぶ蝶を追っては目をキラキラと輝かせる。
「ねぇ、父さま、この蝶、すごくキレイね」
すぐ後ろに立つ父に微笑みかける。
父は……とてもとても優しい笑みを浮かべて、ジーナを見守っていた。
「あれ、この前の蝶と模様がちがうみたい。どうして、神さまはこんなふうに、羽にちがう絵を描いたのかな……」
無邪気な口調で問う娘に、父は少し困った顔をしてから……。
「そうだね……」
ゆっくりと泉のほうに歩いて行った。それから泉の水を手ですくうと、近くの石の上に放った。ゆっくりと形を変えながら流れ落ちる水を見ながら、父は言った。
「この水の跡は何に見える?」
「んー、お花?」
「そうだね。花の形に見える。だけどね、これは別に花を描こうと思ったわけじゃないんだ。ただ、偶然、そういうふうに水が流れただけなんだ」
その言葉に、ジーナはキョトンと首を傾げる。
「でも、それは、石がそういう形になっているから。水を垂らしたらお花の形になるようにって、石がそういう形になってたのかもしれないじゃない?」
不思議そうに尋ねるジーナに、父は小さく首を振り。
「そうだね。でも、石がこの形になったことは偶然だ。波が、風が、岩を削り、砕いて石にして、今の形にした。そこにたまたま私が水を放って、気まぐれに、その形に意味を見出そうとしたんだ」
彼は柔らかな、非常に優しげな笑みを浮かべたまま続ける。
「だからね、あの蝶の羽も同じなんだよ。すべてはちっぽけな人間の想像の産物、この心の中で勝手に生み出した幻にすぎない」
それから、彼はそばの花にとまっていた蝶の羽を摘まみ上げた。
「あっ……」
「この蝶が、どうしてこんな羽の色をしているのか? それはね、この蝶の親がこの羽の色をしていたから。そして、たまたま生き残って子を残したから」
二人の目の前を、ひらひらと別の蝶が飛んでいく。
「それは、ちょうどこの蝶とあの蝶の違いみたいなものだ。この蝶を気まぐれに、私が殺してしまえば、この蝶の羽模様は消えてしまう。でも、今、飛んで行ったあの蝶の羽模様は後に残り続ける」
「父さま、その蝶、殺してしまうの?」
不安そうなジーナの声に、父は苦笑いを浮かべて、蝶を逃がしてやって……。
「いいかい、ジーナ。神なんていない。すべては偶然の産物なんだ。あの蝶が生きるのも死ぬのも、私が生きるのも死ぬのも……お前が生きるのも、死ぬのも。そこには何の意味もない。意味を与える神がいないのだから、意味を与えるのは自分自身しかいない。ならば、自分が死ねば、意味はすべて消え去る……それならば、意味というものを論ずることには、それこそ意味がない……」
最後のほうはジーナにではなく、どこか自問自答するような、茫洋とした口調で、父は言ったのだった。
「ずいぶんと古い夢を見たものです。昨夜はひさしぶりに走り回ったからでしょうか」
狭い部屋の中、ジーナは小さくあくびをする。
「それにしても、昨夜は残念なことでした。あと一歩のところでしたのに、まさか、あのクラリッサ姫が、あそこまでの手練れだったなんて……」
まったくの想定外の出来事。
まさか、ここまで企みが破られるとは思っていなかった。手足として使っていたエピステ主義者たちも、一網打尽にされてしまったうえに、ほとんど成果も出せていない。
「まぁ、今回のことで、ヴェールガのトップの首がすげ替えられるなら、隙も生じるでしょう」
そうなれば、一定の成果と言えるだろうが……それにしたってあまりにも一方的な負け方だった。それはもう、普通では到底考えられないほどに……ではあるが……、
「まぁ、そういうこともあるでしょうね……」
ジーナに不満はない。すべては偶然の産物に過ぎないのだから。
「計画の頓挫に意味はない。たまたま、あの蝶はクモの巣に引っかかり、たまたま、この蝶が一生、クモとは無縁であるように……。あの魚が、もっと大きな魚に食べられるのに、この魚が食べられず、子孫を残していくように」
こうして偶然が、さながら糸のように連綿と紡がれてきたものが歴史だというのなら、そこには、なんの意味もない。
魚の気まぐれ、クモの巣を揺らす風、蝶の不注意、子を成すタイミング……あらゆる要素が偶然絡まり合ってできた世界。そこに自身が生まれ落ちたのも、また偶然に過ぎない。
「そこに奇跡などと言う意味を見出すのは愚かなこと。この世界にあるのは現実と不条理な偶然のみ……。でも、ふふふ、きっと聖女ラフィーナや帝国の叡智は、こんな偶然にもなにか意味を見出すのでしょうね」
小さくつぶやいたまさにその時、ドアが開いた。そこに立っている人物を見て、ジーナは笑った。
「あら、これは奇遇ですね。ちょうどお話ししたいと思っていたところでした」
上機嫌に歌うように、ジーナは続ける。
「ふふふ、まさに奇跡的な奇遇ですね。わざわざ来ていただけるなんて光栄です。ミーア姫殿下」