第九十七話 ミーア姫、わるぅい笑みを浮かべる
クラリッサに話す前に、一瞬、チラリとアベルが視線を送ってきた。
――蛇のことを話しても良いものか、ということですわね。
ミーアもチラリとラフィーナのほうを窺うと、涼しい顔をしていた。オルレアン、ユバータ司教も同様に、特に口を挟む様子はない。
まぁ、昨夜の一件でクラリッサも関係者になってしまったし、今さら隠し立てするわけにもいくまい、ということだろうか。
素早く、お歴々の心情を忖度したメッセンジャーミーアは、そのままアベルに頷いてみせる。っと、アベルはミーアに小さく頭を下げてから、クラリッサへの説明を始める。
「秩序の敵、混沌の蛇……その巫女姫が、ヴァレンティナお姉さま……」
眉間に皺を寄せつつ聞いていたクラリッサ。王家にとって、それは、あまり歓迎できる話ではない。大きなスキャンダルと言ってもよいものだっただろう。されど。すべてを聞き終えた後、クラリッサの顔に浮かんだのは、安堵の表情だった。
「でも、良かった。ヴァレンティナお姉さまが生きておられて……」
それは、家族として、妹として当然の感情だったのだろう。そんなクラリッサの素朴さが、ミーアには非常に好ましく思えた。
「では、ヴァレンティナお姉さまとお話しすることは……」
「いえ、残念ながら。先ほども言いましたが、数日前に脱獄したらしいのです」
アベルの言葉に頷いて、ラフィーナが深々と頭を下げた。
「ええ、その不手際も、改めて謝罪を」
合わせて、オルレアンとユバータ司教も。
さすがに、ヴェールガのお歴々に頭を下げさせたままというのは気まずい。ミーアは慌てて手を振って、
「そんな……みなさま、どうぞ、顔をお上げになってくださいまし。仕方ありませんわ。あのような場所から脱獄など、誰も想像できませんもの」
ヴァレンティナが収監されていたのは、厳重に監視が立てられた塔のような建物だ。
脱出することは、限りなく不可能に近い。ディオン・アライアの助力を得るなどできれば可能かもしれないが……。
「というか、あの狼使いが協力したのですわよね?」
「そのようね。他にも協力者がいるのかもしれないけど……」
頷くラフィーナを見て、ミーアは、ふむっと鼻を鳴らす。
狼使い、火馬駆。馬上戦闘においては、かのディオン・アライアにも匹敵する剣腕の持ち主である。そのような人間離れした男が味方についている時点で、脱出は不可能なことではなかったのだろう。
まして、ヴァレンティナ自身が、剣聖ギミマフィアスが認める剣の天才だ。閉じこめておくのは、容易なことではないだろう。
「ここ最近、大人しくしておりましたし。油断があったとしても、誰も責められませんわ」
そう言ってから、ミーアは話を戻すことにする。
「まぁ、この際はヴァレンティナお義姉さまのことはおくにしても、ジーナさんもガヌドス港湾国国王とは非常に関係が深い人物ですし。処遇を誤れば面倒なことになるでしょう」
せっかく、落ち着いてきたガヌドス港湾国である。
国王ネストリも、息子であるカルテリアと交流することに夢中で、今のところ、国政に口を出してくることはない。けれど、もしここで彼の想い人であるジーナを処刑でもすれば、彼がどう動くかはわからない。
「それゆえに、情報を秘するべき、と……」
思わしげな顔でつぶやいたのは、オルレアンだった。それから、彼は静かに口を開いた。
「情報を秘するのは良いにしても、そのまま秘密裏に処刑してしまうほうが面倒がない、と……。ミーア姫殿下は、そのようにはお考えにならないのですか?」
温厚な彼の口から出た意外な言葉に、ミーアは戸惑う。されど、彼の表情を見て、すぐに納得する。
――なるほど。確かに、ヴァレンティナお義姉さまに逃げられた手前、生かしたまま捕らえておくとはなかなか言いづらいところでしょうね。
ヴェールガ公爵邸で交流した印象でいえば、オルレアンは人間的に、実に柔和で慈悲深い人だ。ラフィーナが時々チラ見せする獅子味のようなところは一切感じられない。
されど、それでも彼はこの国の長であるヴェールガ公なのだ。
神の臣下たる彼には、罪人を相応しく罰する権威と責任が課せられている。
他国の姫に刃を向け、破壊工作を目論んだジーナは、普通に考えれば処刑が妥当。
それゆえに、彼は問うているのだ。
処刑ではなく生かす道を主張するミーアに。秘密裏に処刑してしまうこともできるのではないか、と……。
オルレアンの問いに対し、ミーアは、けれど、慌てることはなかった。
なぜか……? 理由は非常に簡単で……この件の決定権は、ほとんどミーアの手中にあるためだ!
かつて、ラフィーナは言った。罰には二つの側面がある。一つは罪人に反省と改心を促すため。もう一つは被害者の心を慰めるため、と。
では、今回の件の被害者は誰か?
無論、ミーアとクラリッサである。厳密に言うと、シュトリナとディオンも被害者と言えなくもないが、それはさておき。この場で慰めを受けるべき被害者はミーアとクラリッサの二人である。
けれど、クラリッサは、姉のヴァレンティナの助命をされたという経緯がある。姉を助けてもらっておきながら、ジーナには厳しく当たれとは、さすがに言いづらいはず。
したがって、この場で罰を定める主導権を持つのはミーアなのだ。
ということで、ミーアははっきりと明言する。
「処刑すべきではない。生かして捕らえておくべきだと考えますわ」
ミーア的に最も避けたいことは、昔から変わってはいないのだ。すなわち、
――処刑によって万が一にも、ジーナさんのような方が過去に戻りでもしたら、大変なことになりますわ!
もしも……もしも、どうしても処刑しなければならないとするならば、その際の絶対条件は「過去に戻っても大丈夫なぐらい改心してもらうこと」である。
けれど、ここで一つの矛盾が生じる。すなわち、過去に戻しても大丈夫なぐらい改心したならば、別に処刑する必要などないのではないか? と。ミーアはそう思うのだ。
「それは慈悲ゆえに、ですか?」
「慈悲……?」
その問いかけを、ミーアは静かに吟味して……ゆっくりと首を振る。
「いいえ、これは罰ですわ。オルレアンさま」
昨夜、散々追いかけ回されて、少々腹が立っているミーアは、ゆっくりと、はっきりと言う。
「ジーナさんには、いずれ、ガヌドス港湾国に戻っていただき、ご自分でしたことの始末をしていただくのが良いと思っておりますわ」
今さら、実は生きてました! っとネストリ王やカルテリアの前に姿を見せるのは、さぞや気まずいことでしょう……なぁんて、内心でものすごぅく悪い笑みを浮かべるミーア……であったが、ふと辺りを見回して不安を覚える。
――いえ、しかし、それはさすがに意地悪が過ぎると怒られてしまうかしら……。ラフィーナさまだけでなく、オルレアンさまやユバータ司教もいらっしゃいますし……ここは神聖ヴェールガ公国。あまり、悪いことは控えるべき……。
素早く判断、言い訳するように付け加えておく!
「……無論、言うまでもないことながら、これは、ガヌドスで奮闘するオウラニアさんへのエールですわ。ジーナさんを送り込むことで、ガヌドス国王が少しでもやる気を起こしてくれれば、と思ってのことで……」
きっちりと、正当な理由付けをしておき、ふぅっとため息。
言うことはすべて言ったので、あとは、パンを楽しみましょう、と、たぁっぷりのジャムをパンにぬりぬり、ぬりぬり、ぬりたくり……パクリ。
うーん! 美味しい!
朝食を満喫するミーアであった。