第九十四話 私にしかできないこと
真夜中の鬼ごっこの翌日のこと……。
クラリッサ・レムノは心地よい目覚めを迎えていた。
「すごくよく眠れた……。昨夜は走り回ったから、かな」
本当は違うことはわかっていた。
手のひらをじっと見つめる。
「良かった……」
じわり、と実感が体に広がる。
「ミーア姫殿下……アベルの想い人を守ることができた」
もちろん、偶然が重なった結果ではある。
ジーナが使い慣れない剣で、握りの部分も調整されていなかったから、あそこまであっさりと剣を奪えたのだ。
「鍛練でも、成功するのは十回に一回ぐらいだし……。その一回が偶然、最初に来ただけだし……」
だから、驕ったりはしないけど……でも。
「今まで続けておいてよかった」
改めてそう思う。
『姉君のヴァレンティナ姫殿下には及びませんが、クラリッサ姫殿下も、なかなかの腕前ですぞ』
などと、ギミマフィアスから気遣われる度、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
それでも、護衛に迷惑をかけないよう、それ以上に、いざという時、アベルをしっかり守れるように、と、こっそりと鍛練を怠らなかった。
その努力が報われたようで、とても嬉しかったのだ。
「期待されていないからこそ……失敗してもいい。どんなことでも、できる……か」
ミーアの言っていた言葉が甦ってくる。
「どんなことでも……本当にそうなんだ。そんなこと全然知らなかった……」
深い、深いため息を吐く。それから、彼女は机の上に置いてあった本を手に取った。
それは数日前、ミーアから勧められた恋愛小説だった。近頃、令嬢の間で流行っているらしい。正直、あまり興味はないので読んだこともなかったが、読んでみると意外にも面白かった。
っと、そこで気が付いた。着替えの手伝いをしようと近づいてきていた専属メイドの少女が、食い入るように、その本に目を向けていることに。
「ねぇ、少しいいかしら?」
「あ、はい。なんでしょうか?」
少し慌てた様子の若いメイドに、クラリッサは本を差し出した。
「これ、ミーア姫殿下がお勧めしてくださった恋愛小説なんだけど……もしも、あなたが字を読めるとしたら、この本、読んでみたいと思うかしら?」
「え? わっ、私が字を……ですか? そんなこと……」
「例えばの話よ。本が読めたら素敵だと思わない?」
クラリッサの言葉に、メイドは困った様子で頬をかいた。
「うーん、本って神聖典ぐらいしか知らないのでよくわからないんですけど、面白いものなのですか?」
その言葉に、クラリッサは衝撃を受ける。
字を読めない彼女は、小説がどのようなものなのかを知らない。彼女はレムノの貴族の家の出であるにもかかわらず、他国の貴族令嬢が楽しめる物を楽しむことができない。
――そして、もしかしたら、それを羨ましいと思うことすらできないのかもしれない。
知らないから、楽しさを想像できない。想像できないから、それを望むこともない。
――あるいは、読んでみたいと勉強しようとする人もいるのでしょう。でも、レムノ王国では、あまり良い顔をされない。
クラリッサは知る。知らないということが、いかに人を縛り、不自由にするのか。
そして思う。字を読めることが、どれほど『知る』ことに貢献するのか。
クラリッサは改めて、手の中の本に目を落とす。
今度のパライナ祭で、ミーアとラフィーナは共同で「海産物研究所」のプロジェクトを発表するという。
飢えて死ぬ人がいなくなるよう、新しい仕組みを作り出すために。
実現すれば、それは、極めて画期的なことだ。
議論の余地もないほどに、それは、世界を良くしていくための試みだ。
それならば、とクラリッサは考える。
レムノ王国のためになることとは、なんだろうと……。
パライナ祭の主旨は、それぞれの国の技術や文化、伝統などを分かち合い、各国の進歩を促すためのものだ。
――でも、お父さまや高官たちは、各国への牽制や、レムノ王国の名を上げることを考えてる。
かつてのレムノ王国が軍事力を誇示したのも、たぶん同じことなのだろうが……。
――それをすることに、あまり意味はない。それはパライナ祭の主旨にそぐわないし、そんなことをしても、周りの国との緊張を高めるだけだ。私だから……王女だから意味がわからないだけだと思ってた。だから、王子であるアベルに任せてしまえばいいって思ってたけど。それは、たぶん違ってたんだ。
クラリッサは、静かにつぶやく。
「それは違うって感じられる私が……私こそが考えなきゃいけないことなんだ」
レムノが世界に貢献できることは、たぶんない。でも、レムノ王国を、国としてよくしていくことは、巡り巡って世界に対しても良い影響を広げることになるはずだ。
では、レムノ王国を良くしていくためには、どうすればいいだろう? なにを考えて、どう行動していくべきだろう?
ミーアにできることがあるように、ミーアにしかできないことがあるように。
オウラニアにしかできないことがあるように。
アベルにしか、ゲインにしかできないことがあるように……そして。
「私にしかできないことが、きっとある」
レムノ王国の王女として、唯一の、王女として……自分にしかできないことがきっとあるはず……っと。
そう考えた時、ふいに胸の内を寂しさが過る。
――ヴァレンティナお姉さまも、一緒に考えてほしかったな……。
今はもういない、姉の顔を思い出す。
尊敬する姉だった。
頑張っても決して追いつけないほど、才能に溢れた人だった。
憧れて、少しだけ嫉妬して……。距離を置いてしまうこともあったけど……だけど、今ならばわかる。
――お姉さまは、いつも、私をかばってくれていた。私に害意が向かないように、ご自分が矢面に立ってくれていた。決して、私に無茶をさせることはなかった。
静かに首を振り、感慨を振り切って……。
「まず、考えなきゃいけないことは……」
そうして、クラリッサはメイドの少女に目をやった。レムノ王国を良くしていくためには……。