第九十三話 ああっ!!
シュトリナが意識を取り戻したのは、馬上でのことだった。
ゆさ、ゆさ、と体が揺れるのを感じて、シュトリナはなんとか目を動かす。
暗い。これは、あの痺れの霧のせいなのか、それとも町灯り一つない場所にいるからなのか。
上下の揺れ、肌からじんわりと感じる、高い動物の体温。ぶーふっという力強い息遣い。
――なるほど、馬を奪って、それであの場を離れたってことかな……。体が痺れてるのに、無茶するな……。
シュトリナの身体は未だ痺れていた。バランスを取ることすら難しく、ゆらゆらと体が不安定に揺れている。なので、できることはなかった。
――それにしても、やっぱりあれ、毒じゃなかったってことかな。てっきり、意識を失ったら、このまま目が覚めないこともあるかもって思ったけど、やっぱり、こちらを痺れさせて、動きを止めるだけのものなのか……。
ぼんやりと、そんなことを思う。
――それにしても、ここ、どこだろう……? 音の反響からすると、地下を走っているような感じがするけど……。それに、水の音、水路、かな……。
ガクッと体が揺れる。同時に、腰の当たりに引っ張られる感覚。
落ちずに済んでいるのは、どうやら、ベルトかなにかで、体を固定されているからで……。
なんとか意識を集中して目を動かせば、かろうじて、その体が見える。
大きな、戦士の体。苦しげに歯を食いしばりつつ、必死の形相で馬にしがみつく、ディオンの姿が見えた。
――すごい精神力……。自分だけなら、もう少し楽に馬に乗れたはずなのに……。
ミーアを守るという大目標のためならば、むしろ、シュトリナを置き去りにしたほうが良かったはずなのに……。
いつも飄々とした態度のディオンが、懸命に自分を落とさぬように、なんとか助けようと務めてくれている姿が……不覚にも、少しだけ……。こう……グッと!
――いやいやいや、そんなぐらいでコロッといくほど、リーナは、チョロくない……。
心の中で冷静に……若干、食い気味にツッコミを入れるシュトリナである。
どうも、することがないと、余計なことを考えてしまっていけない。
反省しつつ、シュトリナは思考を切り替える。
――それにしても、ディオン・アライアは、どうやら、馬を操るのは諦めて、行きたいままに任せてるみたい……。
痺れる体では、馬にしがみつくのだけでも一苦労。それゆえ、ディオンは、その行く先を馬に委ねた。とりあえず、あの場所を離れることを優先した結果なのだが……。
その、馬任せ、波任せな乗り方は、ダレかさんに似ていた。
そうなのだ。奇しくも、帝国最強の騎士ディオン・アライアは、絶対的な危機に際して、帝国屈指の乗馬の達人、ミーア・ルーナ・ティアムーンの極意「海月乗り」を会得するに至ったのである!
ついに、その究極の無我の境地を、会得した……会得しちゃったディオンなのである。
さすがは帝国最強と言えるだろう。いや、そうだろうか?
まぁ、それはさておき、そうして、地下水路を進んでいくと、一瞬、灯りが見えた気がした。
錯覚か? と思ったシュトリナであったが、その灯りは、見る間に大きくなってきた。
それでわかった。
自分たちが走っているのは、水路脇の狭い道だった。右側には水路が見え、灯りは、ちょうどその水路を渡った反対側にあった。
そして、灯りは、落ち着きなく動いていた。
「ミーア……姫殿下」
突如、かすれた声。振り絞るような声と同時、ディオンの身体が大きく動いた。
それは、シュトリナとしては驚きを禁じ得ない動きだった。
おもむろに腰に手をやった彼は剣を引き抜くや、なんの躊躇いもなく、それをぶん投げたのだ!
彼に投与した薬は、一時的にあらゆる毒の効果を消すというものだ。あくまでもその場しのぎ。効果が持続するものではない。
だから、彼の身体は今、シュトリナと同じように麻痺しているはずで……。
にもかかわらず、ディオンは投げた。
投てきされた彼の剣は、真っ直ぐに対岸へ。刹那、硬い金属質な音。
どうやら、なにかにぶつかり、そして、恐らくは破壊したらしい。
――この状態で、まだ動けるなんて、さすがは、帝国最強の騎士ということなのかな。
かつて、この男と対立しようとしていたことを思い出し、シュトリナは内心で苦笑する。
と同時に、ベルの言葉を思い出す。
――本当に、リーナは、この人と……?
先ほど、唇に触れた感触を思い出し……ちょっぴーり頬が熱くなるのを感じて……。
――あの痺れ薬のせいで、熱が出てるのかな? うん、たぶんそうだきっとそうだ。
あくまでも、あれは投薬だから。それ以外のナニカじゃないから、うん……などと、ひたすらに胸の内でつぶやいてしまう乙女シュトリナである。
――まぁ、いずれにしても、こんな姿、ベルちゃんには見せられないな……。
なぁんて……心の中で、なにか、巨大な旗のようなものを立ててしまったシュトリナであったが……。当然、そんなことをすれば、次に現れるのは……。
「リーナちゃん、大丈夫ですか? リーナちゃんっ! …………ああっ!!」
なにやら……こう、無慈悲な声が聞こえてきた気がして……。それもなにか、すごぅく興奮した声のような気がしてしまって……。
シュトリナは、声の出ない喉の奥で、かすれた悲鳴を上げるのであった。