第九十一話 秘剣
その瞬間を、ミーアは目を見開き、眺めているしかなかった。
振り上げられた斧が、びゅんっと音を立てて加速し始めようとした、その瞬間だった!
ひひぃんっ! っと、聞き覚えのある馬の嘶き。直後、なにかが飛んできて――!
がつんっと重たい音を立て、斧が真横に流れる。その先端、重たい刃がぽろり、と……熟れ過ぎた果実のように、乾いた音を立てて床に落ちた。
ジーナは、呆然と己が手を見た。そこには、ただの木の棒と化した斧の残骸が握られていて……。
次いで彼女は視線を横の壁へ。そこには、騎士剣が突き刺さっていて……。
「あっ! この剣は、もしやっ!」
慌てて、ミーアは剣が飛んできたほうを見た。
水路の反対側、薄闇の中に一頭の馬が見えた。それに乗っているのは、
「まぁっ! あれは、ディオンさんですわ! 来てくださいましたのね!」
ディオン・アライアと、シュトリナと思しき姿が見えた!
ミーアは思わず歓声を上げる!
これで助かったぞぅっ! っと顔を輝かせるミーアであったが……徐々に様子がおかしいことに気付いた。
ぐったりと、馬の首に体を預けるようにして脱力しているディオン。その前に乗るシュトリナも、動くことはなく……。
――よっ、様子が変ですわ。いったい、どうして……。
「ああ……焦りましたけど……さすがのディオン・アライアの直感も、殺意を含まない罠に関しては察知できなかったということですか」
ふと見ると、ジーナが、ふーっと安堵の吐息を吐いた。
「どっ、どど、どういうことですの?」
「ふふふ、はい。実は、ただ痺れるだけの毒霧の罠を仕掛けさせてもらいまして。しかし、あの様子ですと、その後の暗殺者は退けられてしまいましたか」
「なっ……!」
絶句するミーアに、ジーナは鼻歌混じりに壁にめり込んだ剣を眺めて……。
「しかし、化け物じみてますね。体が痺れているのに、この力。斧が見事に真っ二つにされてしまいました」
手の中の残骸となった木の棒を眺めて、こわぁ、っと笑う。それをひょいっと水路の中に投げ捨てて、それから、ジーナは壁に突き立った剣の柄を掴んだ。
「でも、この剣で私を刺し殺さなかったのは失敗でしたね。まぁ、私を狙ったなら、殺意を察知できたかもしれませんけど……」
ぐっぐっと力を入れて、なんとか剣を抜き取って……。
「あー、やっぱり思ってたより、少し重たいですね……。と言いますか、これを、痺れた体で? あんなところから当てた……? え? 本当に……?」
解せぬ、という顔で首を傾げつつも、ジーナは笑った。
「しかし、時間稼ぎが無駄になってしまいましたね。まさか、本当に時間を稼ぐ意味があるとは思っておりませんでしたけど、ふふふ、肝が冷えましたよ。さすがは帝国の叡智ですね」
ぶん、ぶん、っと剣を振りながら、ミーアのほうに目を向けて……。
「あはは、しかし、これは気分がいいですね。あの帝国の叡智の剣も、一手、私には届かなかった。偶然が重なって起きた奇跡もしかり。私の邪魔をすることはできなかったようですね」
チラリとミーアのほうに目を向けて、それからのんびりとした歩調で歩み寄ってくる。
剣を、両手で構えたまま。
「うーん、やっぱり少し重いですね。それに、握りづらい。他人の剣というのは、やはり使いづらいものですが……」
ジーナはニッコリと朗らかな笑みを浮かべて剣を振りかぶる。
「それでは改めて、ミーア姫殿下、お覚悟を」
「ひっ、ひぃいいいっ!」
っと、声にならない悲鳴を上げるミーア。されど、今度こそ逃げ場はない。
見開いたミーアの視界の中、ジーナが一歩踏み込んだ。その、振り上げた剣が鋭い斬撃へと変わる、まさにその刹那!
右の死角から、クラリッサが――踏み込んだ!
両手を頭上に挙げたそれは、レムノ流剣術、第六の構え。唯一、剣を持たぬ構えにして、王家の女性にのみ伝えられる秘密の構えだった。
不意を突いたクラリッサは、右の掌底でジーナの左手に外側から鋭い打撃を加える。同時に剣の柄に左手を伸ばし、掴むとともに思い切り引いた!
するり呆気なく……嘘みたいに簡単に、剣はクラリッサの手の中に渡った。
「えっ……?」
ジーナの口から気の抜けた声が漏れる。
それは、ある流派においては奥義とされる秘技「無刀取り」そのものも技であった。
それは、かの剣聖ギミマフィアスが、若き日に、百人の夜盗を相手にした際に編み出した絶技。戦闘開始早々に得物を折られ、追い込まれた彼が奇跡的に掴み取った達人技だった。
剣を誇りとするレムノ王国の気風のせいで、表立ってはレムノ流剣術に組み込まれることがなかったものの、この達人技を惜しんだギミマフィアスは、王家の女性たちの護身術として……究極の技に昇華した。
それは、相手の剣を奪い取る守りの「無刀取り」と、奪い取った剣を使った攻めによって構成される一連の型。
クラリッサは奪い取った剣を持ったまま、クラリッサが小さく跳躍。空中で、くるりと体を反転させ、刃の横腹で思い切りジーナの背中を打ち付けた!
将来、政略結婚をする姫君の手を血で汚さぬよう、相手を殺すことなく制す技。
相手の背中を刃の横腹で強かに打ち付けることで呼吸を奪い、その意識のみを刈り取る技「背平打ち」
無刀取りから背平打ちまでの、その一連の動作を称して、剣聖はこう名付けた。
秘剣「彼刃返し」と。
どざっと倒れ伏すジーナ。それを見て、それから、ぽかーんっと口を開けて、クラリッサのほうを見れば……。クラリッサは、少しだけ照れくさそうにはにかんで……。
「期待されていないから……警戒されずに上手くできました」
それから、手の中の剣に目を落として……。
「パライナ祭も……もしかしたら、同じかもしれませんね」
小さな声でつぶやくのだった。